第26話 感染症(9)

1878年、6月18日。


花街で爆発的な感染が始まってから、およそ二ヶ月。


粥と梅干しを用いた治療食。


煮沸、蒸留した水の提供。


そして、石炭酸による徹底した消毒と、サボンを使った手洗い。


野菜や山菜は必ず湯でグラグラと煮る。


それらの対策が功を奏したのか、感染者、そして死者の数は、徐々にではあるものの減少していた。


街中の医師たちも、それを肌で感じ始めている。


流行の最盛期には、眠る暇すらなかった。


一人を診れば、次の患者が運び込まれる。


ようやく一息ついたと思えば、また別の家から呼び出しが来る。


夜が明けても、昼になっても、患者は途切れなかった。


それが今では、少なくとも数時間まとまって眠れるようになった。


渋沢たちも同じであった。


渋沢医院の布団で、朝まで眠ったのは久しぶりのことである。


目を覚ました渋沢は、しばらく天井を眺めていた。


身体が妙に軽い。


いや――。


軽いというより、ようやく疲労を自覚できるようになった、と言った方が正しいのかもしれない。


二ヶ月間、身体が疲れていることすら考える余裕がなかった。


患者を診て、水を用意し、消毒を指示し、また患者を診る。


その繰り返しだった。


「・・・朝か」


渋沢は布団から起き上がる。


窓の外から、花街の朝の音が聞こえていた。


荷車の音。


人の話し声。


遠くから聞こえる鳥の声。


ほんの二ヶ月前までは、そこへ悲鳴や怒号が混じっていた。


今は、それがない。


渋沢は身支度を整えると、外へ出た。


向かう先は、もはや日課となった味噌汁の配給所である。


蒸留した水を使って作られた味噌汁。


最初の頃は、あれほど人々から怪しまれていたものだ。


「火にかけた水なんぞ飲めるか」


「井戸水の方が綺麗だ」


そう言っていた者たちも、今では当たり前のようにこれを口にしている。


配給所へ近づく。


まだ早朝だというのに、すでに長い列ができていた。


夜通し働いた者。


これから朝の仕事へ向かう者。


宿へ戻る前に腹を温めようとする者。


皆、湯気の立つ椀を手にしている。


「おい、あちっ!」


列の前方から声がした。


「もっと冷やしてくれやい!」


「冷やしたら意味がねぇ!」


別の男が笑いながら答える。


「なんでも、冷たい水がコロリ毒を作ってるそうだぞ!」


「へえ、そりゃあ知らなんだ!」


「だから熱い方がいいんだ!」


周囲から笑い声が起こる。


渋沢は、その会話を聞きながら足を止めた。


そして、手を顎に当てる。


(冷たい水では当たり、熱い湯では当たらぬ・・・)


ふと、以前から抱いていた疑問が頭をもたげた。


(フグの毒などは、焼いても煮ても消えぬと聞く。毒というものは、熱を加えたからといって必ず無くなるものではない)


(だが、このコロリ毒は違う)


(熱を加えた水を飲むようになってから、明らかに患者が減っている)


渋沢は、湯気の向こうにある味噌汁を見つめる。


(本当に・・・毒なのだろうか)


そもそも、毒とは何なのか。


蜂に刺されれば、ほどなくして患部が腫れ上がる。


蛇の毒もそうだ。


毒そのものが身体へ作用する。


しかし、コロリ毒は少し違う。


水を飲んですぐに倒れるわけではない。


ある程度の時間が経ってから、腹を下し、吐き、そして急激に衰弱する。


(そもそも、この毒はどこから来る?)


(やはり、小さき虫のようなものがいるのではないか・・・?)


渋沢は眉を寄せた。


目には見えぬほど小さな何か。


水の中に潜み、人の身体へ入り込み、そこで何かを起こすもの。


(蜂のように、自ら毒を作っているのではないか?)


(だが、人の腹の中に虫がいるなど・・・)


渋沢は首をひねる。


蟻や蚊のような虫ならば、目で見ることができる。


どれほど小さな虫でも、形がある。


しかし、もしも――。


(目では見えぬほど小さければ?)


渋沢の思考が、そこで止まった。


(・・・いや)


まだ証拠がない。


ただの思いつきに過ぎない。


それでも、この二ヶ月間に見てきたものを考えれば、どうしても気になってしまう。


水を清めると病が減る。


手を洗うと病が減る。


患者の吐瀉物や排泄物に触れた者が病に罹る。


そして、患者の出た場所を消毒すると、次の患者が減る。


偶然だろうか。


(もし、この病が本当に毒ならば・・・)


(その毒を作っているものが、どこかにいるのではないか?)


「・・・ふむ」


「・・・生!」


「先生!」


「渋沢先生!」


「――え?」


突然、声をかけられた。


渋沢が顔を上げる。


目の前には、味噌汁をよそった椀を差し出す警吏が立っていた。


「どうしました? 先生」


「・・・すみません」


渋沢は苦笑した。


「少し考え事をしていました」


どうやら、深く考え込みすぎていたらしい。


警吏はニコリと笑った。


「働きすぎですよ、先生!」


「ほら。これでも飲んで、少し落ち着いてくださいな」


「ありがとうございます」


渋沢は椀を受け取った。


手に伝わる温かさ。


味噌の香り。


二ヶ月前、この味噌汁を配ることすら一苦労だった。


今では、人々の生活の一部になっている。


ふと、警吏の手が目に入った。


指の節や手の甲には、まだ石炭酸による荒れの跡が残っている。


皮膚はところどころ赤く、ひび割れていた。


「・・・手、大丈夫ですか?」


渋沢が尋ねる。


「ああ、これですか?」


警吏は自分の手を見た。


「最初の頃はひどいもんでしたよ。石炭酸で洗え、洗えって言われましてね」


「今じゃ、手が真っ赤です」


そう言って笑う。


「ですが、サボンが手に入りやすくなってからは、ずいぶん楽になりました」


確かに、調理を担当していた者たちの手も、以前のようなボロボロの状態ではなくなっている。


石炭酸だけに頼らず、サボンを使って手を洗うことができるようになった。


それもまた、この二ヶ月間で起きた大きな変化だった。


「そうですか」


渋沢は頷いた。


「順調ですか?」


警吏は目を丸くした。


そして、少し嬉しそうに笑う。


「ええ、おかげさまで」


「この近辺では、もう毒に当たった人は見なくなりました」


渋沢は、その言葉を聞いて黙った。


「・・・そうですか」


胸の奥から、ゆっくりと安堵が湧いてくる。


だが――。


それと同時に、別の感情もあった。


この病は、いったい何だったのか。


なぜ水を清めれば減るのか。


なぜ人から人へ広がるのか。


そして、なぜ人の身体をあれほどまでに急激に弱らせるのか。


まだ何一つ、答えは出ていない。


渋沢は味噌汁を一口すすった。


温かい汁が、疲れの残る身体へ染み込んでいく。


「・・・終わったわけではないな」


「え?」


「いや」


渋沢は首を振った。


「何でもありません」


花街の朝は、いつもと変わらず始まっていた。


人々は仕事へ向かい、店は戸を開け、荷車が道を行き交う。


二ヶ月前には、死と恐怖に覆われていた街。


その街が、少しずつ日常を取り戻している。


しかし渋沢の胸の中には、一つの疑問だけが残っていた。


――コロリ毒とは、本当に「毒」なのか。


そしてもし、毒ではないのだとすれば。


あの病を引き起こしていたものは、一体何だったのか。


渋沢はその答えを求めるように、湯気の向こうの街をじっと見つめていた。


———


その頃、帝国石油化学。


研究所の一室に、見慣れぬ木箱が運び込まれていた。


箱の側面には、ドイツ語で何やら細かな文字が並んでいる。


「これが・・・例の顕微鏡ですか」


大田が木箱を覗き込みながら言った。


「ええ」


菊池は頷く。


「渋沢先生から頼まれていたものです」


二人で蓋を開ける。


中から現れたのは、黒い金属製の精密な器械だった。


真鍮の部品。


大小いくつものレンズ。


そして、光を集めるための反射鏡。


これまで日本で見かけることなどほとんどなかった、最新式のドイツ製顕微鏡である。


「随分と立派なものですな」


大田が感心したように呟く。


「これなら、かなり小さなものまで見えるそうですよ」


菊池は付属していた説明書を手に取った。


もっとも、書かれているのはすべてドイツ語。


「・・・まあ、読めませんけどね」


「そこはどうするんです?」


「何とかなるでしょう」


菊池は苦笑した。


二人は慎重に顕微鏡を机へ置いた。


そのときだった。


研究室の扉が開く。


「おお・・・」


渋沢が入ってくる。


そして、机の上に置かれた顕微鏡を見た瞬間、足を止めた。


「これが・・・例のものですか」


「はい」


菊池が振り返る。


「先生から依頼されていたものです」


渋沢はゆっくりと顕微鏡へ近づいた。


手を伸ばしかける。


しかし、壊してしまうのではないかというように、寸前で手を止めた。


「随分と精巧ですね・・・」


「ドイツ製の最新式だそうです」


大田が説明する。


「高性能な反射鏡も付いている。これまで使われていたものより、かなり鮮明に観察できるそうですよ」


「なるほど・・・」


渋沢は顕微鏡をじっと見つめる。


その目には、好奇心が宿っていた。


二ヶ月。


二ヶ月もの間、渋沢はコロリ毒と向き合ってきた。


患者を診た。


死者を見た。


井戸を封鎖した。


水を煮沸した。


患者へ粥を与えた。


石炭酸で手を洗わせた。


サボンを配った。


そして、ようやく感染者の数が減り始めた。


だが――。


肝心の「なぜ」だけが分からない。


なぜ水なのか。


なぜ人から人へ広がるのか。


なぜ同じ水を飲んでも、倒れる者と倒れない者がいるのか。


渋沢は、それをずっと考えていた。


「先生」


菊池が声を掛ける。


「実は、もう一つお話があります」


「何でしょう?」


菊池は研究室の奥を指差した。


「この研究所には、現在使っていない部屋が一つあります」


「空き部屋ですか?」


「ええ」


大田が続ける。


「以前は別の実験に使っていたのですが、今はほとんど物置になっています」


「そこで、先生の研究をされてはいかがでしょう」


渋沢は少し驚いた。


「私が、ここで?」


「はい」


菊池が頷く。


「医院では、患者の診察があります。街へ行けば、救護や調査もある」


「それでは落ち着いて研究できないでしょう」


大田も頷く。


「ここなら器具も揃っています。必要なものがあれば、我々もできる限り用意します」


渋沢はしばらく黙っていた。


そして、顕微鏡を見る。


「・・・本当に、使ってもよいのですか?」


「もちろんです」


菊池は笑った。


「このために取り寄せたようなものですから」


「それに」


大田が付け加える。


「我々も、この病の正体は知りたい」


渋沢は二人の顔を見た。


「ありがとうございます」


深々と頭を下げる。


「こちらこそですよ」


菊池は笑う。


「帝国石油化学の研究所です。病気の研究をしたところで、誰も文句は言わんでしょう」


「・・・では」


渋沢は顕微鏡へ目を向ける。


「使わせていただきます」


「どうぞ」


菊池は空き部屋の扉を開けた。


そこには、古い机と棚がいくつか置かれているだけだった。


窓は小さい。


しかし、机を置くには十分な広さがある。


「ここを片付ければ使えます」


「必要なものは?」


「ガラス板、試験管、ピンセット、それから水を採取するための容器でしょうか」


渋沢は考えながら答える。


「患者の吐瀉物や排泄物を調べる必要もあります」


大田が少し顔をしかめる。


「そこまで?」


「ええ」


渋沢は真剣だった。


「病の原因が水にあるのなら、水だけを見ても分からないかもしれません」


「患者の身体から出たもの」


「使った茶碗」


「井戸水」


「川の水」


「そして、蒸留した水」


渋沢は一つ一つ指を折っていく。


「できる限り比較してみたい」


菊池は頷いた。


「分かりました。採取用の器具はこちらで用意しましょう」


「ありがとうございます」


「それと、研究中は石炭酸を使ってください」


菊池が真面目な顔で言う。


「先生まで倒れられたら、こちらが困りますからね」


渋沢は苦笑した。


「分かっています」


「患者の試料を扱うなら、なおさらです」


「ええ」


渋沢は空き部屋を見回した。


まだ何もない。


机も、器具も、資料も足りない。


しかし――。


これからここが、コロリ毒の正体を追う研究室になる。


渋沢は顕微鏡を空き部屋へ運び込んだ。


机の中央へ置く。


反射鏡の角度を確かめる。


そして、その器械をじっと見つめた。


「・・・では、始めましょう」


菊池と大田は黙って頷いた。


二ヶ月間、渋沢たちは病と戦ってきた。


だが、これまでは目の前の患者を救うことが中心だった。


これからは違う。


なぜ、この病が生まれたのか。


なぜ、水を介して広がるのか。


そして――。


一体、何が人間の身体をこれほどまでに蝕むのか。


その答えを探すための研究が、今、始まろうとしていた。


帝国石油化学研究所。


その片隅にある小さな空き部屋。


後にそこは、コロリ毒の正体を追い続ける渋沢の研究室となるのであった。

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