第6話:心地よさのその先へ
土曜日。約束の日の当日。
綾瀬君の家の最寄り駅で杏奈と合流し、住宅街を歩いていると、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなってきた。
「なんか緊張してきた」
「どうしたのよ? もしかして本気になっちゃったとか?」
「えっ???」
杏奈のからかうような言葉に、私は思わず素っ頓狂な声をあげて立ち止まってしまう。
意識してはいなかった。けれど、そう言われると自分の気持ちがよく分からなくなる。
ただ、自覚した瞬間にカッと顔が熱くなっていくのが分かった。
「あらあら、恋する乙女じゃん。いいんじゃない! このまま付き合っちゃえば」
「それは出来ないよ! ちゃんと終わらせてから、もう一度……」
「そうだね、ケジメを付けなくちゃね!」
「うん!」
これが恋なのか、正直自分でもまだ確信は持てない。ただ、彼とのこの心地いい関係を、まだ切りたくないということだけはハッキリと分かっていた。
やがて、目的の表札が見えてくる。綾瀬君の自宅前まで来て、私は少し震える指でインターホンを押した。
ガチャリと扉が開いて、上品な年配のおばあさんが出てくる。
「こんにちは、いらっしゃい」
「こんにちは、初めまして。綾瀬君のクラスメイトで雪代詩織と申します」
「こんにちは、私もクラスメイトの間宮杏奈です」
「あらあら、丁寧なあいさつありがとうね! ささ、入って」
「「おじゃまします」」
靴を脱いで上がると、廊下の奥から一人の美少女が姿を現した。湊くんの妹の、結菜ちゃんだ。
「いらっしゃい。話は聞いています。私もずっとじゃないけど、同席していいですか?」
「もちろんよ!」
結菜ちゃんは小さく頷き、私たちを案内して廊下を進む。そして、ある扉の前で立ち止まった。
「お兄ちゃん、入ってもらうね!」
結菜ちゃんは湊くんの返事を聞くよりも早く、お馴染みの動作でパッと扉を開けた。
一歩踏み込んだそこは、求めていた綾瀬君の部屋だった。
「やぁ、いらっしゃい。雪代さんの私服は初めて見た。良く似合ってる。間宮さんも良く似合っていて可愛いね!」
「ありがとう! 嬉しい」
私の胸がトクンと跳ねる。杏奈は隣で、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「ありがとう! まぁ私はおまけみたいだけどね!」
「あはは、そういう訳でも無いよ! まぁ狭いけど好きに座って。部屋の中のものは好きにしてくれればいいから、読みたい本などあれば好きに取ってね」
綾瀬君はいつものように穏やかに笑う。
けれど、私はベッドの端に腰を下ろしながら、ふと室内の異様な違和感に気がついた。
──なぜか、生活感がない。
男の子の部屋だから散らかっていない、とかそういうレベルではない。圧倒的にモノが少なすぎるのだ。まるで、いつ主がいなくなってもいいかのように。
胸をざわつかせながら綾瀬君の顔を見つめ、私はもう一つの違和感の正体に気づく。
「今日もファンデーション塗ってるのね」
私の言葉に、杏奈が綾瀬君の顔を覗き込んだ。
「えっ。ホントだ。やけにきれいな肌だと思ってたけどファンデだったんだ」
「今日は用事があったからだよ」
綾瀬君は事も無げにそう言って笑う。
その笑顔の裏にあるものを、この時の私はまだ何も知らなかった。
それからは、いつも通り、何気ない会話をずっとしていた。
学校のこと、趣味のこと、他愛のない冗談。綾瀬君と紡ぐ言葉のすべてが、すごく心地いい。
ふと視線を向けると、杏奈と結菜ちゃんが並んでベッドに腰かけ、大人しく本を読んでいる。
退屈そうにページをめくる二人の姿を見て、私は胸の内で小さく呟いた。
(暇そうにしているけど、ごめんね。私と綾瀬君の時間を邪魔しないでね……!)
少しの独占欲を抱くほど、彼と過ごす時間は特別だった。
楽しい時間は、恐ろしいほどの速さで過ぎ去っていく。
あっという間に、あらかじめ決めていた約束の時間になってしまった。
「ここまでだね。今日も楽しかった。本当にありがとう」
「うん、僕も楽しかった。妹に玄関まで送らせるから。また来週」
「うん、またね」
名残惜しさを引きずりながら、結菜ちゃんの先導で玄関へと向かう。
靴を履き、出迎えてくれたおばあさんにも頭を下げた。
「今日はありがとうございました。また来たいと思っています!」
私の言葉に、おばあちゃんが一瞬、暗い顔をしたのを私は見逃さなかった。影を落とした表情のまま、おばあちゃんは静かに微笑む。
「良かったら、また来なさい」
「失礼します」
重い扉が閉まり、綾瀬君の家が遠ざかっていく。
最寄り駅へと向かう帰り道、杏奈がじっと私を見て言った。
「ねぇ、あれで付き合っていないの?」
「付き合ってないね。お試し期間ね」
私は胸の内で、来週の土曜日のことを想う。
(来週、この『お試し』の関係をちゃんと終わらせて……新しい、本当の関係を作れればいいな!)
弾むような期待を胸に抱きながら、私は夕暮れの街を歩き続けた。
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