第4話:限界の金曜日、知らないヒロインと許さない妹
いつもなら、どんなに多くても週に3日通えればいい方だった。
それなのに、今週の兄は、まるで何かに取り憑かれたように毎日制服に袖を通していた。
その代償が、金曜日の朝、残酷な形で現れる。
「……お兄ちゃん」
声をかけて部屋に入ると、兄はベッドから起き上がることすらできず、浅い呼吸を繰り返していた。顔色は紙のように白く、おでこにはべったりと冷や汗が浮いている。
夜通し、あの激痛と闘っていたのだ。見ているこちらが泣き出しそうになるのを、私は必死に堪えて、あえていつも通りの、少し怒ったような声を絞り出した。
「お兄ちゃん、無理しちゃダメじゃん! 今日は大人しく寝ててね!」
「……ああ、そうする。ありがとう、結菜」
「じゃあ、私、学校行くね」
「おう」
兄は力なく微笑み、すぐに重そうにまぶたを閉じた。昏睡に近い深い眠りに落ちていく兄を見て、私の胸の奥で、どす黒い感情が鎌首をもたげた。
(あの女のせいだ……)
雪代詩織。あの女と付き合うようになってから、兄は明らかに無理をして学校に行こうとしている。
お兄ちゃんが喜ぶなら、私はどんなフォローだってする。でも、お兄ちゃんをこんなに辛い目に合わせる存在なら、話は別だ。
事情も知らないくせに、お兄ちゃんの命を削っていくあの女を、私は絶対に許さない。
ーーー
「……大丈夫?」
スマートフォンの画面に向けて放った文字には、いつまで経っても既読がつかなかった。
金曜日の教室。いつも隣の列の後ろにいるはずの綾瀬くんの席は、ぽっかりと空いている。
お昼になっても連絡は来ない。授業の内容なんて全く頭に入ってこなかった。ふと、彼が「1年生の妹がいる」と言っていたのを思い出す。居ても立ってもいられなくなった私は、早めにお弁当を片付け、1年生のフロアへと向かった。
(確か、この教室のはず……)
1年B組の扉を開け、中に足を踏み入れる。一瞬で周囲の視線が集まるのを感じながら、近くにいた女の子に声をかけた。
「ごめんね。私は2年の雪代詩織です。綾瀬結菜さんはいるかな?」
「えっ、雪代さん!?……結菜ちゃん! お客さんだよ!」
その子が教室の奥を振り返る。つられて私も視線を向けた。
立ち上がったその子は、綾瀬くんに少し面影の似た、驚くほど可愛い女の子だった。「あ、この子が妹さんなんだ」と思ったのも、本当に、ほんの一瞬のことだった。
私を見た瞬間、彼女の瞳の奥が、凍りつくような色に変貌した。
向けられたのは、明確な【憎悪】と【嫌悪】。言葉にできないほどの強烈な圧に気圧され、私は思わず一歩、後ろへ足が下がってしまった。
けれど彼女はすぐに視線を落とし、次に顔を上げたときには、ごく普通の、綺麗な1年生の瞳に戻っていた。
(……え? いまの、私の勘違いじゃないよね……?)
「――雪代先輩。私が綾瀬結菜です。何かご用ですか?」
鈴を転がすような、けれどどこか事務的な声。
「あ、うん。お兄さん、今日はお休みしてるよね? 連絡したんだけど返事がないから、少し心配で……」
「大丈夫です。今は寝ていると思います。起こしたくないので、メッセージの連投は控えていただけますか? 体調が戻れば、必ず返事はあると思いますので」
一見、兄を気遣う妹の言葉。けれどその響きには、これ以上こちらに踏み込ませないという、鉄の壁のような冷たさがあった。
「私、この後ちょっと用事があるので、ここまでにしていただけますか?」
「あ、あっ……ごめんね、突然来ちゃって。ありがとう。言われた通り、待ってみるよ」
逃げるように1年生の教室を後にし、自分の教室へと戻る。
胸のざわつきが収まらない。歩きながら、私は自分の両腕を抱きしめた。
(私……もしかして、あの妹さんに、もの凄く嫌われてる……?)
どうしてあんな目を向けられたのか分からず、モヤモヤした気持ちを引きずったまま放課後になった。その時、スマートフォンが短く震えた。
『ごめん、眠ってた。もう問題ないから、週明けには学校に行くよ!』
綾瀬くんからの返信だった。それを見て、張り詰めていた胸の痛みがすっと軽くなる。
『寝ているところに送ってしまってごめんなさい』
『構わないよ。僕も(体調が悪いことを)言ってなかったしね』
『週明け、会えるのを楽しみにしてるよ!』
『僕も!』
画面の中の彼は、いつも通りの優しい綾瀬くんだ。
何かがおかしい。あの妹の態度も、彼の体調も、何かが隠されているような気がする。けれど、私たちはまだ、その秘密に踏み込めるほどの深い仲じゃない。
届かない距離に、私はただ、小さくため息をつくことしかできなかった。
ーーー
「……危なかった」
雪代詩織が去った教室で、私は小さく息を吐いた。
一瞬、完全に素の目で睨みつけてしまった。お兄ちゃんの命を脅かす外敵に向けてしまう、あの目を。
(気づかれたかな? ……まあ、気づいたならそれでもいい。これ以上お兄ちゃんに近づかないで)
「ねぇねぇ、結菜ちゃん。あれってやっぱり、2年の雪代先輩だよね?」
お弁当箱を片付けながら、親友の女の子が興奮気味に顔を覗き込んできた。
「ん? そうだと思うよ」
「すっごい綺麗な人だよね……! だけどさ、なんで結菜ちゃんのお兄ちゃんのこと気にしてたの?」
「さあ、知らない」
興味なさそうにスープをすする私に、親友は声を潜めて言った。
「あのさ、実は上のフロアで、お兄ちゃんの綾瀬先輩と雪代先輩が付き合ってるって噂があるんだけど……」
「そうなの? 知らなかった」
私はスプーンを置き、冷ややかな声で言い放った。
「あの女じゃ、お兄ちゃんには釣り合わないよ。ただのくだらない噂じゃない?」
「あ、あはは……。そ、そうだよね! 聞いた私がバカだったわ!」
私のあまりの身内贔屓(ひいき)と冷たい温度感に、親友は両手を振って苦笑いしている。
それでいい。
学校での私は、ちょっと冷たくて、重度のブラコンの妹でいい。
お兄ちゃんが守ろうとしている『普通の日常』の裏側は、私一人で全部抱えて、あの女からも、死の影からも、お兄ちゃんを絶対に守ってみせる。
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