第3話:画面越しの距離感

学校から帰宅し、いつものように二人で静かに夕食を囲んでいるときだった。

湊は箸を動かしながら、まるで明日の天気のことを話すような気軽さで、とんでもないことを口にした。


「あのさぁ、結菜。僕、雪代さんと一ヶ月限定で付き合うことになったよ」


「……えっ?」結菜の手がピタリと止まる。お茶碗を持ったまま、兄の顔をまじまじと見つめた。


毎週土曜日の午前中に受けている、あの過酷な緩和治療。そして午後にホスピスへ向かい、病気と闘う子供たちの話し相手をする兄の姿を誰よりも知っている結菜にとって、学校カーストの頂点にいる雪代詩織との交際は、あまりに現実味のない話だった。


「……それが、お兄ちゃんのしたいことなの?」

かわいそうだから、と彼女に同情されて傷ついてほしくない。結菜の瞳にはそんな強い心配が宿っていた。


「どうだろう。何となく流れからだけどさ……でも、後悔はしてないよ」

湊は穏やかに笑った。その顔に無理がないことを見て取り、結菜はそっと息を吐き出して箸を置いた。


「そっか。お兄ちゃんがそう決めたなら、私は応援するよ。……ただ、外に遊びに出ることは難しいんじゃない?」

「あー、それもそっか。よし、それだけは事前に彼女に伝えておくよ」

「うん、そうしたほうがいい。絶対に無理はしないでね」

「ああ、分かっているさ」


「付き合うって言っても、お互い恋愛感情なんてないからさ。まあ、ちょっと距離の近い友達? みたいなものだよ」と付け足す兄を見て、結菜は何も言わずに深く頷いた。


ーーー


自室に戻った湊は、ベッドの縁に腰を掛け、スマートフォンを開いた。

彼の部屋は、同年代の男子の部屋とは大きく異なっていた。ポスターも、お気に入りの雑貨も、何一つない。自分の「終わり」を達観している湊にとって、この部屋に無駄なものを残す必要はなかったからだ。壁際に置かれた本棚に、ある程度のライトノベルが整然と並んでいる。それが、彼がこの世界に生きた数少ない足跡のようだった。


今日新しく登録したばかりの連絡先へメッセージを送る。


『今日は楽しかったよ。ありがとう!』


既読はすぐに付いた。まるで待っていたかのような速度で、返信が返ってくる。


『こちらこそ!また明日も一緒に帰ろうね!』


画面の向こうの彼女の弾んだ文字を見て、湊は今日結菜に指摘されたことを思い出し、文字を打ち込んだ。


『そうだね!一つ伝えておくことがあるんだ。詳しい事情は話せないんだけど、僕、あんまり外に遊びに行くことができないんだ』

『そうなんだ……。じゃあ、お部屋でお話しするのはいいのかな?』


予想外の提案に、湊は少し驚いて目を丸くした。だが、お試しの自分たちがそれをするのは違うと、湊は冷静に彼女の立場を思いやった。


『どうだろう? あくまでお試しの付き合いだから、完全に二人きりになるのは雪代さんのためにも良くないと思うよ』

『それもそうだね! その時が来たらまた考えればいいね。じゃあ、また明日!』

『うん、また明日ね』


スマートフォンを机の上に置き、湊は静かに目を閉じた。「その時」は、もう来ないかもしれない。けれど、それで良かった。


ーーー


自室のベッドでスマートフォンを握りしめたまま、詩織は天井を見つめていた。


(……すごく、優しい人)


今日の帰り道のことを思い出す。

湊は私の歩く速度に合わせて、そっと歩調を緩めてくれた。車が通り過ぎるときは、何気ない動作で自分が車道側へと立ち位置を変えてくれた。どれも大げさなアピールではなく、呼吸をするように自然な気遣いだった。


今まで、私の「美貌」や「カースト」ばかりを見て近寄ってくる男の人はたくさんいた。彼らはいつも自分を良く見せようと必死だったり、下心が透けて見えたりした。けれど、綾瀬くんは違う。私を「学校のヒロイン」としてではなく、ただの一人の人間として静かに見つめ、気遣ってくれているように感じられた。そんな男性は、初めてだった。


だからこそ、さっきのメッセージを見返して、詩織は少しだけ胸がチクリとした。


(私、何言ってるんだろう……。部屋に行くなんて、まるで私から強引に誘っているみたいじゃない。軽い女の子だと思われたかもしれないな……)


彼は『雪代さんのためにも良くない』と、私の立場や周りの目を守るために断ってくれたのだ。罰ゲームという最悪のきっかけから始まった関係なのに、彼は私を責めるどころか、どこまでも誠実に接してくれる。


まだそれが「恋」なのかは分からない。けれど、学校の男子たちの誰よりも大人びていて、不思議な落ち着きを持つ綾瀬湊という存在が、詩織の心の中に確かに小さな、けれど消えない足跡を残し始めていた。

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