第9話 温泉宿に尋ねてきた知り合いじゃない冒険者達とのトラブル
順風満帆に見えた開業初期だったが、当然、良いことばかりは続かない。開業からしばらく経ち、施設の運営にも少しずつ慣れが生まれ始めた頃だった。奇しくもその日は、フィリシアが休日だった。まるでその不在を見計らったかのように、トラブルは三件、同じ日のうちに立て続けに起こった。
休み明け、フィリシアが姿を見せると、アルドはまず切り出した。
「昨日、色々あってな。軽い方から報告するぞ」
問題の程度が軽いものから順に伝える方が、話が整理しやすい。そう判断してのことだった。もっとも、罪の軽重で並べたその順番は、実際に起きた時系列とは一致していない。アルドは時間の前後を気にせず、まずは最も軽微だったものから語り始めた。
一番軽かったのは、夜も更けた頃、酒の許される食事会場で起きた一件だった。この迷宮に初めて挑み、ようやく五階層へ辿り着いたという若い冒険者の一団が、この食事会場で祝杯を上げていたのだが、杯を重ねるうちに次第に声が大きくなっていった。施設の格式を理解しないまま、酒に酔った勢いで従業員に絡み始めたのだ。
「おい、こんな辺鄙な場所にある宿にしちゃ、随分と態度がでかいんじゃねえのか」
呂律の怪しい声で、給仕の一人に詰め寄る。今にも手を上げかねない剣呑な空気が漂い始めたところで、騒ぎを聞きつけたアルドが即座に間へ割って入った。
「お客様、失礼いたします。アルドと申します」
まず名乗りを上げ、丁寧に一礼する。名乗るのは、あくまで名前だけに留めた。かつてこの姓――ヴェインを知る者は、地上の冒険者ギルドにも少なくない。名の知れたA級冒険者と同姓同名など、死んだはずの自分が生きていることへの、余計な詮索を招きかねない。それを避けるための、ささやかな用心だった。
その落ち着いた所作に、当の男は一瞬、毒気を抜かれたような顔をした。
「本日はどのようなご用件でしょうか。差し支えなければ、お伺いできますでしょうか」
「な、なんだよ、いきなり……あー、いや、大した用じゃねえよ」
「左様でございますか。ですが、従業員に大声を上げられていたご様子でしたので、念のため確認させていただきました。何かご不満な点がございましたら、私が直接お伺いいたします」
有無を言わせぬ丁寧さの中に、確かな圧を滲ませたその物言いに、酔いも幾分覚めたのか、男は口を噤んだ。実際に手が出るところまでは至らず、周囲の仲間たちが慌てて彼を宥めて連れ去っていく。
「悪かった、迷惑かけた……」
酔いも手伝ってか、しおらしくなった男が頭を下げる。あくまで口頭での威嚇に留まったこともあり、注意のみでその場は収まった。それ以上の罰則を科すには至らなかったが、アルドの中には確かな緊張感が残った。まだ日が浅いこの施設の評判は、ほんの些細な綻びからでも簡単に崩れかねない。気を引き締め直しながら、アルドは持ち場へと戻っていった。
「次は、時間を遡って昼過ぎの話だ」
そう前置きして、アルドは二件目を語り始めた。清掃担当のシーから、緊迫した声で報告が入った一件である。
「アルド様! 備品の盗難です! 対象の冒険者様、まさに今、出口に向かってます!」
普段は子供のように屈託なく笑うシーだが、来客の前や緊急時には、きちんと丁寧な言葉遣いに切り替える。細やかなことによく気がつく、しっかり者としての一面も持ち合わせていた。清掃中に部屋の備品――高価な装飾品の一つが、不自然に持ち去られていることに気づいたのだという。
実のところ、この部屋には盗難防止用の魔法があらかじめ施されていた。だが、その男は、巧妙な偽装と幻影を組み合わせた手口で、その防護をまんまと掻い潜っていたのだ。魔法と窃盗、両方の技術に長けた、相当な手練れの常習犯だったのだろう。几帳面な仕事ぶりで知られるシーでなければ、恐らく発見すら叶わなかった。シーが慌てて駆けつけた時には、既にその冒険者は施設の出口間際まで進んでいた。
「大丈夫だ、心配いらねえ」
アルドは落ち着いた様子で告げた。この場合の対処は、既にフィリシアとの取り決めで定まっている。施設内の備品には、宿泊室での盗難防止や持ち出し探知以外にも、退出できるエリア全てで、更に強力な持ち出しを検知する保護の魔法が施されているのだ。部屋からの持ち出し自体、既に並大抵の手管では突破できない代物だが、それすら防護策の中では最も難易度が低い部類に過ぎない。盗んだ直後と、その部屋から抜け出す瞬間までは警戒していても、その先――廊下、フロント、そして出口に至るまで幾重にも張り巡らされた警戒網が待ち受けているとは、なかなか想像が及ばないものだ。段階を踏むごとに強度を増していく、幾重もの防護策。この施設からの盗難は、事実上、成功のしようがないと言っても過言ではなかった。
案の定、出口の目前で、対象者にだけ届く警告が発せられた。
『規定外物品の持ち出しを検知。速やかな返却を推奨する。応じない場合、規約に基づき対象の所持品を没収する』
感情の一切籠らない、機械仕掛けの音声のような無機質な声だった。それは本人以外の誰の耳にも届かない。想定外のタイミングで察知されたことに、男は僅かに動揺した様子を見せた。それでも、出口まではもう目と鼻の先だ。このまま押し切って逃げ切ればいい――そう判断したのだろう。だが、その判断こそが、後に大きな代償を払うことになる過ちだった。
「知らねえよ、そんなもん」
警告を意に介した様子もなく、男は足を速めた。
『返却意思なしと判断。規約第三条に基づき、所持品を没収し、強制退去処理を実行する』
先程とは違い、その声はもはや本人だけに留まらず、その場にいた冒険者たち全員の耳に届くほどの音量で、フロア中に響き渡った。次の瞬間、彼の身に纏っていた装備一式が、衣服に至るまで、瞬く間に剥ぎ取られていった。悲鳴を上げる間もなく、一糸纏わぬ姿になった男は、そのまま地上へと強制送還されていく。
騒ぎを遠巻きに見ていた他の冒険者たちが、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。この施設のルールに背けば、どのような結末が待っているか――その一部始終を、図らずも目の当たりにすることになったのだ。
「……あれ、二度と入れねえようになるんだよな」
「当たり前だろ。あんな真似して、許されるわけがねえ」
遠巻きに囁き合う声が、アルドの耳にも届いていた。後日、当の男が悪びれもせず再びこの場所へ足を運ぼうとしたが、境界を越えることすら叶わなかったという。二度とこの施設に立ち入ることを許されない――その事実もまた、周囲の目にはっきりと焼き付いていた。皮肉なことに、この一件は却って、施設の規律の厳格さと安全性を、来訪者たちに強く印象づける結果となった。
「で、最後に残ったのが、一番厄介だった一件だ」
アルドはそう言って、僅かに表情を引き締めた。時間で言えば、昼過ぎの一件からさらに数刻後、夕刻に会計窓口で起きた出来事だった。
「──おい、もう少しまけろよ。竹プランだろ、これ」
会計を担当するケントラの前で、恰幅の良い冒険者が凄んでいた。B級冒険者の利用が最も多い、竹プランの精算だった。数字を扱う仕事柄か、ケントラはどのような相手を前にしても、感情の起伏をほとんど表に出さない。淡々と、しかし決して揺るがない態度で、来客の一人一人と向き合う。それがケントラという男の、生来の気質でもあった。
「申し訳ございませんが、竹プランにおきましても、料金の値引きには応じかねます」
眼鏡の位置を直しながら、毅然と告げる。
「はぁ? ふざけんな、この人数分払えるかよ」
騒ぎを聞きつけ、アルドがすぐさま歩み寄る。まず、名前だけを簡潔に名乗ってから対応に当たった。
「お客様、大変恐れ入ります。アルドと申します。当施設では料金の交渉は一切承っておりません。あらかじめ定められた規定料金にて、お支払いをお願いしております」
丁寧な言葉遣いを崩さぬまま、しかし譲らぬ姿勢を示す。だが、その丁寧さとは裏腹に、男の苛立ちはさらに募っていく。
「ちっ……舐めた真似しやがって。俺がその気になりゃ、こんな宿くらい」
苛立ちを隠さず、男はケントラを睨みつけた。だが、ケントラは表情一つ崩さず、淡々と受付の書類に目を落としている。その動じない態度が、かえって男の神経を逆撫でしたのか、言うが早いか、男は腰の武器に手を掛けた。
「──武力を見せてやろうか、って言ってんだよ」
脅すような低い声に、周囲の空気が凍りつく。だが、アルドは眉一つ動かさなかった。
「そうですか。では、こちらも同じように応じさせていただきます」
淡々と告げると同時に、アルドは腰の剣を静かに抜いた。動じる様子の欠片もないその佇まいに、男は一瞬、怯んだように見えた。だが、次の瞬間、頭に血が上ったのか、男は矛先を変えて傍らのケントラへと殴りかかった。細身で、見るからに非力そうなケントラを、狙いやすい標的と判断したのだろう。実際には、従業員たちは皆、B級冒険者に匹敵する実力を備えている。ケントラ自身も、その細身に似合わぬ護身術の心得があり、咄嗟に身をひねって一撃をいなそうと構えを取っていた。非力そうな見た目故に狙われやすいことを、誰よりも自覚していたからこその備えだった。
「──させるか!」
アルドが咄嗟に間に入り、その一撃を自らの腕で受け止める。鈍い痛みと共に、皮膚が裂ける感触が走った。だが、その傷が塞がるのも一瞬だった。裂けた皮膚は瞬く間に閉じ、血の滲む間もなく元通りになる。とっさの判断だったが、迷いは一切なかった。目の前で従業員が傷つけられるのを、黙って見ているわけにはいかない。だが、その一撃を受けた事実こそが、事態を決定づける証拠となった。
「来客者による従業員、および施設責任者への傷害行為を確認。規約に基づき、強制退去の対象といたします」
アルドが低く告げると同時に、男の足元に淡い光の紋様が浮かび上がる。抗う間もなく、男の姿はそのまま光に包まれ、施設の外へと弾き出されるように消え去った。
事前に周知していた通りの措置だった。この施設では、来客者による暴力行為は一切の例外なく、即座の強制退去という形で厳しく処される。その説明は、入口での案内時に必ず伝えられている。知らなかったでは済まされない、明確な取り決めだった。
「アルド様、お怪我は」
ケントラが青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「大したことねえ。もう治った。それより、庇うのが遅くなって悪かったな」
「いえ、私のような非力な者を狙った、あちらの卑劣さの問題です。アルド様が謝られることは、何一つございません」
丁寧な言葉遣いを崩さぬまま、それでもケントラの声には、隠しきれない安堵の色が滲んでいた。
一通り聞き終えたフィリシアは、静かに頷いた。
「一件目については、口頭注意で収まったとのこと、適切なご対応でした。二件目、三件目についても、いずれも規約通りの厳正な処置です」
そこまで言ってから、フィリシアは僅かに眉を寄せた。
「それより、三件目のお怪我です。アルド様は不死者とはいえ、痛みそのものがなくなるわけではございません。従業員を庇って前に出られたこと、危険を顧みないその判断は立派です。ですが、どうかご自身のことも、もう少し労わってください」
純粋な気遣いの滲んだその言葉に、アルドは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「……傷はすぐ塞がるんだ、大した問題じゃねえよ」
「傷が塞がることと、痛みを感じないことは、また別の話でしょう」
静かに、しかしはっきりとそう返され、アルドは言葉に詰まった。
「気にすんな。それより、こういう手合いへの対応は、もう少し従業員にも共有しといた方がよさそうだ。特に、備品盗難の対処法は初めて発動したケースだったからな」
「承知いたしました。次回の全体会議で、改めて周知いたします。あわせて、入口での事前説明も、より分かりやすい形に見直しましょう」
淡々と対応策を練るフィリシアの様子に、アルドは小さく息を吐いた。一日でこれだけの騒動が重なれば、普通なら気が滅入るところだ。それでも、こうして一つ一つ着実に体制を固めていけることに、確かな手応えを感じている自分がいた。
理不尽な形で始まったこの仕事だが、少なくとも自分にできることが確かにある。そう思えることが、今のアルドにとって何よりの支えだった。
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