第8話 温泉宿に尋ねてきた知り合い冒険者達との交流

開業から一週間が経った頃、入口に見覚えのある顔ぶれが現れた。慌ただしい開業初日の熱が落ち着き、少しずつ日々の業務にも慣れてきた矢先のことだった。アルド以外の従業員は、繁忙期を除けば週休二日制が定められている。ちょうどこの日はフィリシアの休日であり、施設内にその姿はなかった。急な来客の応対は、アルドと従業員たちだけで賄うことになった。


「……おい、まさかとは思うが」


先頭に立つ壮年の男を見て、アルドは思わず息を呑んだ。かつて幾度か依頼で共闘したことのある冒険者、ダリオだった。日に焼けた顔に刻まれた深い皺、片眉の上に残る古傷――何年経っても変わらぬその佇まいに、懐かしさが込み上げてくる。傍らには、二、三人、これまた見知った顔が並んでいた。長身で尖った耳を持つエルフの魔法使いと、恰幅の良いドワーフの盾役――どちらも、かつてアルドが幾度か共闘したことのある顔ぶれだった。


「アルドの姿を見た、なんて噂を耳にしてな。まさかと思って確かめに来たんだが……本当に、生きてたのか?」


問い詰めるような眼差しに、アルドは苦笑した。生きているとは、正確には言えない。だが、それを馬鹿正直に説明できるわけもなかった。


「まあ、色々あってな。詳しくは聞かないでくれ」


言葉を濁すアルドに、ダリオたちは訝しみながらも、その場の空気から深追いすべきではないと悟ったようだった。代わりに、彼らの視線は自然と施設全体へと向けられていく。


「……それにしても、とんでもねえ施設だな、これは」


豪奢なフロントロビーに置かれた座席とテーブル。磨き上げられた石畳、種族ごとに区分けされた入り口の表示。ダリオの連れの一人が、席に着いたまま、感嘆の声を漏らして周囲を見渡していた。


「露天風呂からは、地上の空まで見えるんだとよ」


「マジかよ。地の底でそんな贅沢、聞いたことねえぞ」


物珍しそうにあちこちを覗き込む彼らの様子に、アルドは案内役を買って出た。普段の業務では見せない、どこか得意げな足取りで施設を巡りながら、簡単な説明を加えていく。かつての戦友たちに、自分の今の仕事場を見せて回る――そんな時間が、思いのほか心地よかった。


「なあ、ここまで来るのに、他にも似たような施――」


言いかけたダリオの言葉が、不自然に途切れた。


「……あー、いや。何だったか、今の」


怪訝そうに眉根を寄せるダリオに、アルドは思わず息を呑んだ。今の間は、明らかにおかしい。だが、それを指摘しようとした自分の口もまた、同じように重くなるのを感じた。


「悪い、俺も今、何か言おうとした気がするんだが……」


二人して顔を見合わせ、しばし黙り込む。だが、すぐにどちらからともなく肩をすくめ、そのまま話題は他愛のない世間話へと流れていった。


――この温泉宿を含め、迷宮に関わる情報は、従業員専用のエリアを除いて、冒険者だろうと従業員だろうと誰であろうと、決して口にできないよう魔法によって固く封じられている。尋ねようとする側も、答えようとする側も、等しくその対象だ。それが発動する瞬間の感覚は、あまりに自然で、まるで最初から「その話題自体が存在しなかった」かのような錯覚すら覚えるほどだった。不自然さの欠片もないその作用に、ダリオたちが何かに気づく様子は微塵もなかった。


それでも、語れる範囲での情報交換は許されていた。地上での近況、流行り廃り、共通の知人の消息。誰それが結婚した、あのギルドの支部長が代替わりした、去年流行った疫病がようやく収まったらしい――他愛のない話題の一つ一つが、アルドの中に凍りついていた「地上での生活」の記憶を、少しずつ溶かしていく。


「そういや、お前が抜けた後のギルド、随分と静かになっちまってな」


ダリオがそう言って、寂しげに笑った。


「お前がいた頃は、無茶な依頼でも誰かが最後には何とかしてくれる、そんな空気があった。今は、そういう空気を作れるやつがいねえんだよ」


思いがけない言葉に、アルドは何と返せばいいか分からず、ただ黙って耳を傾けていた。自分が去った後の場所に、こうして小さな空白が残っていたという事実は、悪い気はしなかった。積もる話に花を咲かせながら、しばしの間、アルドは肩書きも立場も忘れて、ただの旧友として笑い合っていた。


だが、いつまでもこの時間に浸ってはいられない。アルドはやがて表情を引き締め、静かに切り出した。


「悪いんだが、ギルドに伝えてほしいことがある。俺は──もう、死んだってな」


場の空気が凍りついた。ダリオが言葉を失う中、アルドは懐から取り出した遺品――使い込んだ愛用の短剣を差し出した。


「形見だ。誰かに渡してくれ。俺には家族もいなかったからな、お前らに託す」


「……何があったのか知らねえが、そこまで言うなら、伝えるさ」


沈痛な面持ちで短剣を受け取るダリオの手が、微かに震えていた。長年の付き合いの中で、これほど動揺した表情を見せる男ではなかったはずだ。それでもアルドが元気にこの場に立っているという矛盾に、彼らは複雑な感情を抱えながらも、それ以上の詮索はしなかった。詮索したところで答えが返ってこないことを、この場の空気が雄弁に物語っていたからだ。


「……とはいえ、こんな辛気臭え空気のまま帰るのも、な。おい、お前ら」


ダリオが仲間たちを振り返り、悪戯っぽく笑った。


「せっかくだ、一番豪華な宿泊プランってやつを試してみようや」


「おいおい、大丈夫か。結構な高額になるが」


アルドが念のため釘を刺すと、ダリオは鼻を鳴らして笑った。


「馬鹿にすんな、こちとらA級だぞ。多少の金額で怯むかよ」


「そう言うと思ったよ。なら、まずは詳しい中身を聞いてくれ」


そう言って、アルドは会計担当のケントラを呼び寄せた。ケントラは眼鏡の位置を直しながら、丁寧に最上級プランの内容を説明していく。個室専用の温泉、部屋食で提供される最高級の献立、そして料金体系。淀みなく続くその説明に、ダリオたちは相槌を打ちながら聞き入っていた。


そうして受付に案内された料金表を目にした瞬間、ダリオの威勢の良さに、僅かな翳りが差した。宿泊料金は前払い制。提示された桁を見るなり、ダリオは思わず唸り声を漏らした。


「……おい、これ、本当にこの値段か? 見間違いじゃなくて」


「ああ、そのままだ。前払いになるんで、今ここで全額必要になる」


アルドが淡々と告げると、ダリオは一瞬、腕を組んで黙り込んだ。


「……悪い、ちょっと待ってくれ。もう少し下のランクにしといた方が、無難かもしれねえな」


現実的な財布の中身と睨めっこしながら、明らかに怯んだ様子を見せるダリオ。それを見て、ケントラが他のプランの料金表も併せて提示した。豪華、上級、松、竹、梅、素泊まり――段階ごとに整理された表を前に、ダリオたちは真剣な面持ちで見比べ始める。それでも、先程聞いたばかりの最上級プランの中身が、なかなか頭から離れないらしい。値の張る料金に眉をひそめながらも、その魅力には抗いがたいものを感じている様子が、誰の目にも明らかだった。


「無理に勧めはしねえよ。だが、通常プランでも十分に満足できる中身にはなってる。決めるのはお前らだ」


その一言に、ダリオはしばし考え込んだ後、仲間たちと顔を見合わせた。


「……いや、いい。滅多にねえ機会だ。ここで渋ったら、後で絶対に後悔する」


腹を括ったように頷くと、ダリオは財布の紐を緩め、躊躇いを振り切るように料金を支払った。


その一言に、一同の顔がぱっと明るくなる。案内された特別室に足を踏み入れた瞬間、ダリオたちは揃って言葉を失った。


一部屋の広さだけでも、地上の宿屋であれば一棟丸ごと収まりそうなほどだった。天蓋付きの寝台が人数分ゆったりと並び、絹を思わせる寝具は、指先で触れただけで極上の肌触りが伝わってくる。ほのかに漂う香りに気づけば、地上では貴重な薬草を用いた、回復を促進させる御香が焚かれていた。冒険者にとって、これほど有難い心遣いはない。そして何より目を引いたのは、部屋に併設された個室専用の温泉だった。共用の大浴場とは別に、この部屋を取った客だけが独占できる、専用の湯船が備えられている。それだけではない。泡が絶えず湧き立つジャグジー、じっくりと汗を流せる本格的なサウナまでもが、同じ空間に贅沢に配置されていた。誰に気兼ねすることもなく、仲間内だけで湯に浸かりながら語らえるという贅沢は、地上のどんな高級宿でも味わえるものではなかった。


「……おい、これ本当に俺たちが使っていい部屋か?」


連れの一人が、半ば呆然とした様子で呟いた。


極めつけは、その個室温泉に投影された光景だった。共用の露天風呂と同じく、千里眼によって地上の空模様がそのまま映し出されている。だが、この最上位の部屋に限っては、投影する風景そのものを自在に切り替えられる機能まで備わっていた。事前の説明を受けたダリオたちは、面白がって次々と風景を変えていく。


「おい見ろ、これ雪山だぞ! 一気に別世界だ!」


「今度はこっちだ、海だ海! なんかもう、贅沢すぎて逆に落ち着かねえな」


はしゃぐ仲間たちの声が、湯気の向こうから絶えず響いてくる。まるで子供に戻ったかのように無邪気にはしゃぐその様子は、日頃、命がけで迷宮に挑む屈強な冒険者たちの姿とは、およそかけ離れたものだった。


夕食の席には、調理担当責任者のドルグが自ら料理を運んできた。


「本日の魚は、迷宮内の湖で育ったものに、同じく迷宮産の香草を合わせております。癖のある食材ですが、臭みは抑えてございますので、ご安心を」


熊の獣人らしい大きな身体を折り曲げるようにして、恰幅の良い巨躯の男が丁寧に一礼する。皿を並べる所作の一つ一つに、几帳面な性格が滲んでいた。


「こいつは……美味いな。魔物の料理ってのがどんなもんか、正直身構えてたんだが」


ダリオが目を丸くしながら箸を進める様子に、ドルグは満足げに目を細めた。迷宮内の各所で育まれた、多種多様な最高級食材をふんだんに使った膳が、次々と卓上に並べられていく。極めつけは、食後に振る舞われたワインだった。芳醇な香りを放つその一杯を口にした瞬間、ダリオは思わず目を見開いた。


「……待て、これ。まさかとは思うが」


「王都の迎賓館クラスの品ですね。人間界では、王侯貴族の祝宴でもなければ、まず出回らない代物かと」


ドルグが事も無げにそう告げた。地上のどんな高級宿の特別室であっても、これほどの品を確実に用意できる保証はない。王都の一流と謳われるスイートルームでさえ、入手できるかどうかは運次第という代物が、この深い地の底では当たり前のように振る舞われている。その事実に、一同はただただ絶句するしかなかった。


「お口に合いましたようで、何よりです」


丁寧な物腰を崩さぬまま一礼し、ドルグは一同の元を後にした。だが、客間を離れ、厨房へと戻る道すがらアルドと鉢合わせると、その口調は一変した。


「どうよ、あの反応。上出来だったろ」


「ああ、ダリオの食いつき方、見たか。あれは本気で美味いと思った顔だ」


くだけた調子で肩を並べて笑い合う二人の様子に、居合わせた従業員が思わず二度見するほどだった。ドルグがここまで砕けた態度を見せる相手は、今のところアルドをおいて他にいない。開業前、味付けや盛り付けについて幾度となく助言を重ねてきた中で、いつしか二人の間には、単なる上司と部下の関係を超えた気安さが芽生えていた。


「アルドのアドバイスがなきゃ、今日のあの一皿はできてねえよ。正直、感謝してる」


「大袈裟だな。腕がいいのはお前だろうが」


軽口を叩き合いながら、二人は連れ立って厨房へと戻っていった。


「……いや、正直、料金を見た時は目玉飛び出るかと思ったがな」


湯上がりのダリオが、苦笑いを浮かべながら漏らした。一人当たりの宿泊費が、一般の人間であれば一年働いてようやく手が届くかどうかという金額だ。それが四人分ともなれば、単純計算で四年分――地上の平均的な稼ぎで言えば、家族を養いながらでは到底手の届かない、目の眩むような総額になる。突き付けられた請求の桁数に、ダリオたちは支払いの段階で一瞬、揃って呼吸を忘れたほどだった。


「それでもな、ランクを落とさなくて正解だったよ」


そう言いながら、ダリオは自らの右肩をぐるりと回してみせた。


「若い頃、魔物にやられた古傷でな。もう何年も、雨の日になるとずきずき疼いてたんだ。それが今、驚くほど軽い。まさか、たった一日でここまで違うとはな」


その言葉に、アルドは軽く目を見張った。単なる疲労回復の域を超えて、長年抱えてきた古傷にまで効能が及んでいるという話は、アルド自身、初めて耳にするものだった。


「……そいつは、俺も知らなかったな。まさか古傷にまで効くとは」


「大袈裟じゃなく、本当だ。この効き目を知ったら、地上の連中は目の色変えて押し寄せてくるぞ」


実際に一日を過ごしてみれば、その額面に見合うだけの、いや、それ以上の満足感があったのも事実だった。至れり尽くせりの給仕、個室で心ゆくまで浸かった湯、王都でも滅多にお目にかかれない極上のワイン、長年の古傷までも和らげる湯の効能、そして何より、一切の警戒を必要としない完全な休息。それら全てをひっくるめれば、決して法外な値段ではないと、ダリオ自身が誰よりも実感していた。湯上がりの火照った顔で、彼は迷いなく言い切った。


「それだけの価値は、間違いなくある。ギルドにも、熱っぽく語ってやるさ」


もっとも、通常の利用料金であれば、一般人の一月分の稼ぎ程度に収まる。野営時に使う安全確保の結界アイテム一晩分の、およそ倍の値段ではあるものの、食事付きで夜通しの警戒すら不要になることを思えば、破格の安さだと言えた。野営を経験したことのある冒険者であれば、誰もがその値打ちを即座に理解できるだろう。眠っている間も気を張り詰め、僅かな物音にも飛び起きる緊張感からの解放――それこそが、この温泉宿が提供する何よりの価値だった。


その傍らでは、接客担当のミアウたちが、ダリオの仲間たちから施設についての感想を熱心に聞き取っていた。最上級プランでの宿泊者は、彼らが初めてだった。それだけに、聞き取る内容も自然と多くなる。


「お湯加減はいかがでしたか」


「最高だったな。特に露天の方は、しばらく出たくなくなるくらいだった」


「食事の味付けなどで、気になった点はございますか」


「いや、正直文句のつけようがなかったぞ。強いて言うなら、もう少し量があってもいいくらいだ」


根掘り葉掘りといった様子の質問攻めにも、ダリオたちは嫌な顔一つ見せなかった。むしろ、上質な経験を語れることが嬉しいのか、次々と感想を口にしていく。温泉の泉質、食事の味付け、部屋の使い勝手――迷宮そのものに関わる話題こそ出なかったが、それ以外の情報は惜しみなく交わされていく。ミアウはその一つ一つを丁寧に書き留めながら、次の献立の改善案に思いを巡らせていた。聞く方も、答える方も、互いに上機嫌なひとときだった。


「今度は、知り合いの冒険者も連れてこようかな」


「ぜひ、お待ちしております」


そんなやり取りが、あちこちで交わされていた。


数日後、ダリオたちのパーティが、迷宮への挑戦から戻ってきた。ダリオを筆頭に、腕利き揃いのA級パーティとして、これまで幾度となく迷宮に挑んできた面々だ。それでも、これまで八階層が最高到達点だったはずの彼らが、今回は九階層にまで足を伸ばしたという。


「疲れの抜け具合が、いつもと全然違ったんだよ。あの湯のおかげとしか思えねえ」


興奮気味に語るダリオの話によれば、道中の動きも、判断の速さも、これまでとは比べ物にならないほど冴え渡っていたという。おまけに、八階層の最深部で、この日の宿泊費用の二倍以上に相当する財宝まで手に入れたというのだから、驚くほかない。


「これは、験担ぎに通うしかねえな」


そう豪快に笑ったダリオたちは、それから月下温泉宿の常連となっていった。宿泊の度に上機嫌で語られるその体験談は、地上のギルドの酒場でも、格好の話の種となっていく。


もっとも、この一件でダリオ自身、密かに戦慄した事実があった。腕利き揃いのA級パーティである自分たちが、束になっても九階層がやっとという領域。それを、かつてのアルドはたった一人で、十一階層まで踏み込んでいたことになる。人間界における冒険者の最高位はS級――だが、その座に就く者は、この百年、周辺国家を見渡しても単独では一人として存在しない。パーティとしての登録ですら、この五十年でわずか二例のみ。しかもその両方が、既に一線を退いている。単独で十一階層に到達するという偉業は、もはやA級の範疇を遥かに超え、S級すら凌駕する領域にあるのではないか――そんな考えが、ダリオの脳裏を過ったが、それを本人に確かめる術は、今の自分にはなかった。


そして、この一件を皮切りに、噂は少しずつ、しかし確実に、地上の冒険者たちの間へと広まっていくことになる。

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