第7話 温泉宿オープン初日
「……誰も入って来ない…か」
開業初日、入口に立ったアルドは、静まり返った迷宮の通路を見つめながら呟いた。無理もない。五階層に唐突に現れた豪奢な施設など、冒険者たちからすれば罠以外の何物でもないだろう。事実、遠巻きに様子を窺う冒険者の姿はあっても、誰も近づいてこようとはしない。遠くから聞こえる話し声にも、期待よりも警戒の色が濃く滲んでいた。
それも当然のことだった。これまで冒険者たちの間で共有されていた攻略ルート――五階層に到達した者なら当たり前のように進んでいたはずのその道筋に、魔法による完全な隠蔽が突如として解かれ、豪奢な施設がそのまま姿を現したのだ。何もなかったはずの場所に、ある日いきなり巨大な建物が出現する。そんな光景を目の当たりにすれば、誰だって警戒を解けるはずもなかった。
「アルド様、不安ですか?」
隣に立つフィリシアの問いに、アルドは肩をすくめた。
「不安っつうか、そりゃ警戒もするだろうなと。俺だって攻略中にいきなりこんな施設があったら、まず疑う」
だからこそ、アルドは自らサクラ役を買って出た。武装を一切外し、丸腰のまま入口に立つ。死線をくぐり抜けてきた冒険者だからこそ分かる、「死が身近な環境で武装を解く」という行為の意味。それは何よりの安全性の証明になる――と同時に、諸刃の剣でもあった。危険極まる迷宮の只中で、誰かが無防備を晒しているという光景は、裏を返せば「これは罠だ」と警戒を強める材料にもなりかねない。
もっとも、その程度の懸念は、事前にフィリシアと打ち合わせを重ねた上で織り込み済みだった。この後に控えている、もう一つの仕掛け――積極的に安全を証明する演出があってこそ、初めて丸腰でいることの意味が生きてくる。仮にこの段階で冒険者たちの警戒が解けたなら、それはそれで儲け物に過ぎない。あくまでこの後の一手までを見据えた、最初からの取り決めだった。
丸腰でいることは、あくまで消極的な証明に過ぎない。この後さらに、積極的に「ここが安全地帯である」ことを見せつけるための、もう一つの仕掛けが控えていた。
無防備なまま、まるで何の警戒もしていないかのように悠然と立つアルド。その姿を、遠巻きの冒険者たちが固唾を呑んで見守っている。
次の瞬間、周囲の岩陰から幾筋もの魔法の光と、鋭い牙や爪を持った魔物の影が、一斉にアルド目掛けて襲いかかった。
「――なっ!?」
見ていた冒険者たちが息を呑む。だが、その全ての攻撃は、アルドの身体に触れるよりも遥か手前で、見えない壁に阻まれるように次々と弾かれていった。炎の魔法は霧散し、放たれた爪は空を切る。まるで結界そのものが、この場を丸ごと包み込んでいるかのような光景だった。
攻撃を仕掛けた魔物たちも、己の一撃が通用しないと悟るや否や、深追いすることなく即座に岩陰へと引き上げていった。まるで最初から、この一撃で終わりと決めていたかのような、迷いのない撤退ぶりだった。
「な、なんだ今の……」
「魔物の攻撃が、まるで届いてねえぞ」
遠巻きの一団から、動揺と困惑の声が漏れ聞こえてくる。それでいて、その声色には、恐怖よりもむしろ興味の色が濃く滲み始めていた。
アルドは眉一つ動かすことなく、その場に泰然と立ち続けている。全身に着弾するはずだった攻撃の余波すら、纏う空気を僅かに揺らすだけで、傷一つ残していない。その圧倒的な安全の証明に、遠巻きの冒険者たちは互いに顔を見合わせ、言葉を失っていた。
「……この施設の敷地内は、どんな攻撃も届かねえ。それがどういうことか、分かるよな」
静まり返った通路に、アルドの声が淡々と響いた。遠巻きの冒険者たちの間に、驚愕と、そして確かな安堵の色が広がっていく。
――この一連の出来事は、実のところ、冒険者たちがまだ遠巻きに施設を窺っていた頃合いを見計らって仕組まれた、周到な演技だった。五階層を巡回する魔物たちに、事前に協力を仰いでいたのだ。その連絡経路は、アルドからフィリシアへ、フィリシアから警備担当のバルガへ、バルガから五階層の巡回責任者へ、そして巡回責任者から現場の魔物たちへと、順を追って伝えられていた。バルガが元々、迷宮の巡回部門から警備担当へと配属された経緯があったからこそ、この連携は驚くほど滑らかに実現していた。
しばらくの沈黙の後、意を決したように一人の冒険者が近づいてきた。
「……本当に、安全なのか?」
「保証する。もし何かあったら俺が全部受ける。責任者だからな」
丸腰のまま、まっすぐに相手の目を見て答えるアルド。その堂々とした態度に、冒険者は逡巡しながらも境界線をまたいだ。境界を越えた瞬間、身構えていた身体から、目に見えて力が抜けていくのが分かった。何事もなく施設内に転送された彼は、豪奢なフロントロビーを目にして思わず声を上げた。
「……マジかよ、これ」
一人が入れば、後は早い。遠巻きに見ていた冒険者たちが、次々と興味本位で足を踏み入れ始める。最初は互いに顔を見合わせながら、恐る恐る境界を越えていた者たちも、先に入った仲間の楽しげな声を耳にするうちに、次第に足取りを速めていった。褐色の肌に牙を覗かせる、オークの血を引く屈強な戦士や、小柄で身軽なハーフリングの盗賊など、人間だけに留まらない多様な顔ぶれが、次々と施設内へと吸い込まれていく。最終的にその日訪れたのは、十数組の冒険者たちだった。人数にすれば、六十名ほどにもなる。開業初日としては、十分すぎる成果だった。
「評判、良さそうですね」
フィリシアの言葉に、アルドは湯上がりで上機嫌な冒険者たちを眺めながら頷いた。
「まあな。あとは注意事項の周知だけしっかりしとけば、大きな問題は起きねえだろ」
温泉の効能に驚き、施設の豪華さに感嘆し、それでいて厳格な利用ルールにも素直に従う冒険者たち。彼らの満足そうな表情を見て、アルドの中に確かな手応えが生まれていた。
死んでなお働かされるという理不尽な現実は、今もアルドの中で完全に消化しきれてはいない。だが、それでも――誰かの役に立っているという実感だけは、噓偽りのない本物だった。
夜も更けた頃、館内を見回るアルドの足取りは、いつになくゆっくりとしていた。温泉宿である以上、決まった閉店時刻というものは存在しない。冒険者の来訪は不定期であり、いつ誰が訪れてもいいように、この施設は二十四時間体制で稼働し続けている。とはいえ、さすがに深夜ともなれば来客もまばらになり、必要最低限の機能だけを残して、あとは静かに灯りを落とす。今のこの静寂は、そうした深夜特有のものだった。
すっかり客足が絶えたのを見計らって、警備担当のバルガが声をかけてきた。
「息の合った連携だったな。まるで、本物の襲撃みてえだった」
アルドがそう漏らすと、バルガは満更でもなさそうに胸を張った。誰の目もない今だからこそ、ようやく交わせるやり取りだった。
「巡回部門にいた頃の伝手っす! こんな形で役に立つとは思ってませんでした! 声を掛けたら、皆すぐに動いてくれましたよ!」
「ただ、正直なところ肝が冷えたぞ。攻撃が来る直前まで、気配を全く感じ取れなかった」
アルドの言葉に、バルガは僅かに目を細めて頷いた。
「そこはご安心を! 今回動いてもらったのは、五階層でも指折りの実力者揃いっす! 完璧な不意打ちができる隠密のプロだけ、選りすぐって配置してもらいました!」
「……完璧な不意打ち、ね。冒険者時代にあれをまともに喰らってたら、防げたかどうかは正直微妙なところだったな」
苦笑いを浮かべながらそう漏らすアルドに、バルガは感心したように唸った。
「いやいや、それでもちゃんとその場で異変を察知してたじゃないっすか! あれだけの隠密行動相手に何か感づく人、そうそういませんよ! さすが単独で五階層突破しただけありますね!」
その称賛に、アルドは軽く肩をすくめて応じるに留めた。だが、内心では、この迷宮に潜む底知れなさを、改めて突きつけられた思いだった。
そんな静まり返った施設を見回りながら、アルドはふと気になったことをフィリシアに尋ねた。
「そういえば、俺は住み込みだからいいとして、他の従業員はどうやって家に帰ってるんだ。まさか、毎日この深さを歩いて上り下りしてるわけじゃねえよな」
考えてみれば、当然の疑問だった。百人規模の従業員たちが、毎日徒歩でこの階層まで通ってくるのだとしたら、通勤だけで一日仕事になってしまう。
「従業員専用の区画に、方位陣が設けられております。あれを通れば、各自の居住区――正確には自宅の目の前まで、一瞬で転送される仕組みです」
事も無げに告げられた説明に、アルドは軽く目を見張った。
「便利なもんだな。誰でも使えるのか?」
「使用できるのは、誓約を交わした従業員のみとなります。仮にアルド様や、あるいは無関係な者がその方位陣に足を踏み入れたとしても、何の反応も起こりません。ただの模様が描かれた床としか映らないでしょう」
「へえ……で、これってこの温泉宿だけの仕組みか?」
「迷宮に所属する全部門に共通する仕組みです。実を申しますと、階層間の移動にも、これと類似した機能が使われております」
その言葉に、アルドは思わず唸った。これまで幾度となく、命がけで階層を踏破してきた自分の経験と、今語られた話とを、頭の中で並べてみる。あの死闘の日々が、あまりにも滑稽に思えてくるほどの落差だった。
そこでふと、アルドは今日一日を振り返って、ある違和感に気づいた。
「そういや、今日来た客、全員ヒトの冒険者だったよな。魔族や魔物の客も来るって話だったが、あいつらはどこから入ってくるんだ。まさか、冒険者と同じ入口じゃねえよな」
「ご名答です。魔族や魔物のお客様は、専用に設けられた方位陣を通じてご来訪いただく仕組みになっております。従業員の通勤経路と同じ系統のものです。冒険者様の入口とは、完全に別系統ですね」
「じゃあ、今日はなんで誰も来なかったんだ」
「本日は開業初日ということもあり、混乱を避けるため、あえてその方位陣を稼働させておりませんでした。まずは冒険者様のみの受け入れに専念し、態勢が整い次第、順次開放していく予定です」
なるほど、と得心がいった。今日一日、ヒトの冒険者しか姿を見せなかったのは、決して偶然ではなかったのだ。細部にまで行き届いたその配慮に、アルドは改めて舌を巻いた。
「……ちょっと待て。それってつまり、迷宮の中を自由に、しかも一瞬で移動できるってことか。冒険者がそんなもん使えたら、とんでもねえことになるぞ」
命がけで一階層ずつ踏破していく冒険者稼業そのものが、根底から覆りかねない話だった。だが、フィリシアは落ち着いた様子で首を横に振った。
「ご安心ください。迷宮への所属には、魂に刻む誓約による認証が必須となります。これはヒトには決して行使できない、迷宮に伝わる秘術によって成り立っているものです。ヒトの身のまま、この仕組みを利用することは不可能とお考えいただいて構いません」
淡々と告げられたその説明に、アルドは妙に納得させられるものを感じた。魂に刻む誓約――それはまさに、今の自分自身が縛られている、あの契約と同じ種類のものなのだろう。人間のままでは決して踏み込めない領域だからこそ、こうして特別な形で迷宮に取り込まれた自分にだけ、その一端が垣間見えているのかもしれない。
「……なるほどな。そりゃ、そう都合よくはいかねえか」
安堵と、僅かな落胆が入り混じった様子で、アルドは小さく肩をすくめた。ヒトには決して手の届かない領域が、この迷宮にはまだまだ数多く眠っているのだろう。そのことを改めて実感しながら、アルドは静まり返った施設に、そっと視線を巡らせるのだった。今日一日だけでも、驚かされ通しの連続だった。それでも、こうして一つ一つ迷宮の内側を知っていくことに、不思議な充実感を覚えている自分がいた。
こうして、月下温泉宿の記念すべき開業初日は、ひとまず穏やかな成功のうちに幕を閉じたのだった。
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