第6話 施設完成とレグナスの視察
宣言された通り、それから二週間後。温泉宿は、ついにその全容を現した。
「……できたんだな、本当に」
完成した施設を見渡しながら、アルドは感慨深げに呟いた。磨き抜かれた石畳、湯気の立ち上る幾つもの浴場、種族ごとに区分けされた脱衣所。あの日、模型を前に指摘した改善点の数々も、しっかりと反映されている。何もない空間を前にただ説明を聞いていたあの頃とは違い、今こうして実際に目の前に完成した建物が立っている。その事実だけで、込み上げてくるものがあった。
この宿にはまだ正式な名がなかった時、施設が形になった記念にと、フィリシアに促されるまま、アルドは真っ先に露天風呂へと足を運んだ。千里眼によって投影された地上の光景を初めて目にしたその夜、空にはちょうど、満月が浮かんでいた。湯気越しに揺らめく月明かりの光景があまりに印象的で、アルドは思わずその場で口にしていた。
「――月下温泉宿、ってのはどうだ」
「月下、ですか」
「満月の下で浸かる湯だ。悪くねえ名前だと思うが」
フィリシアはしばし黙考した後、静かに頷いた。
「良い名だと存じます。レグナス様に進言いたしましょう」
数日後、フィリシアを通じて伝えられた答えは、「月下温泉宿」を正式名称として採用する、というものだった。あっさりと通った決定に、アルドは面食らいながらも、どこか誇らしい気持ちを抱かずにはいられなかった。死してなお働かされるだけの日々だと思っていたが、こうして自分の発案がそのまま形になっていくのは、素直に嬉しいものだった。
そうして名を得た温泉宿は、それから一週間をかけて、続々と届く資材の搬入を進めていった。そして今日、ついにその全ての搬入が完了した。明日にはいよいよ、開業の日を迎える。
「本日は、開業前の最終確認日となります。皆様には手分けして、各区画の点検と、届いたばかりの資材の搬入をお願いいたします」
フィリシアの号令のもと、従業員たちは持ち場ごとに散らばっていった。ルーシャたち温泉担当は浴槽の湯量と温度を、ドルグたち調理担当は届いたばかりの食材を、それぞれ入念に確認していく。バルガの警備班は施設全体の見回りを、シーの清掃班は隅々までの清掃状況を、ケントラの会計班は納品書と実際の資材数の照合を、それぞれ手際よくこなしていた。
アルド自身も、各区画を巡りながら細部の確認に追われていた。壁の継ぎ目、扉の建て付け、案内表示の文字の見やすさ――冒険者としての経験から培った「使う側」の視点で一つ一つ丹念に見て回っていく。開業前日のこの慌ただしさも、不思議と心地よいものだった。従業員たちの活気ある掛け声が、あちこちから響いてくる。
そんな最中のことだった。
「――邪魔をするぞ」
聞き覚えのある野太い声に、アルドは思わず振り返った。入口に立っていたのは、レグナスだった。そしてその傍らには、予定にはなかったはずの人物の姿もある。
その場にいた従業員たちが、一斉に手を止めて姿勢を正そうとした。作業道具を放り出さんばかりの勢いで、深々と敬礼の体勢を取ろうとする者もいる。
「よい、よい。楽にしてくれ」
レグナスがそれを片手で制した。
「今日は視察と激励に来ただけだ。仕事の邪魔をしに来たわけではない。作業をしながらで構わんぞ」
軽い会釈と共に告げられたその言葉に、従業員たちは戸惑いながらも、少しずつ作業へと戻っていく。六将ともあろう者が、これほどまでに気さくな態度を見せるとは、アルドにとっても意外だった。
「改めて名乗らせてもらおう。儂はレグナス。迷宮六将の一人として、この階層を含む一帯を預かっておる」
「クレインと申します。魔王様にお仕えする側近衆の1人として、日頃より各所との取次を務めております。此度は、レグナス様のお供として参りました」
痩身で理知的な顔立ちの男が、丁寧に一礼した。アルドは居住まいを正し、深く頭を下げる。
「アルド・ヴェインです。此度、月下温泉宿の責任者を拝命しております。本日はご足労いただき、誠にありがとうございます」
普段の砕けた口調とは打って変わった、折り目正しい挨拶だった。冒険者として培ってきた経験の中には、依頼主への報告や、ギルド上層部との折衝も少なからず含まれている。相手に応じて態度を使い分けることくらい、心得ているつもりだった。かつての自分を叩きのめした相手であり、今はこの身を生かしてくれている陣営の重鎮でもある。その両方の顔を持つレグナスに対して、粗雑な態度で臨むわけにはいかなかった。
続けて、フィリシアも静かに一礼した。
「補佐役を務めております、フィリシアと申します。レグナス様、クレイン様、ご足労いただき恐縮です」
その二人分の折り目正しい挨拶に、レグナスは満足げに頷き、クレインも僅かに目を細めて応じた。
「うむ、二人とも良い挨拶だ。堅苦しい場ではないが、こうして礼を尽くしてもらえるのは悪い気がせんな」
「私からも、恐縮でございます。かしこまった挨拶を頂戴し、痛み入ります。アルド様、フィリシア様。現状の進捗を聞かせてもらえますか」
「畏まりました。まずは施設全体の概要からご報告いたします」
アルドはフィリシアと共に、完成した施設の概要を順序立てて説明していった。種族別の浴場区分、露天風呂の千里眼演出、そして温泉・会計・調理・接客・警備・清掃の六部門による運営体制。各部門の責任者の名も一人一人挙げながら、体制の全容を伝えていく。淀みなく続く報告に、レグナスは時折感心したように頷きながら耳を傾けていた。傍らのクレインも、時折手元の書付に何かを書き留めながら、静かに聞き入っている。
「ふむ、なるほどな。ここまで仕上がっているとは、正直、儂の想像を超えておる」
そう言いながら、レグナスは近くの浴場に視線を向けた。種族ごとに区分けされた入り口の表示、露天風呂の奥に投影された、青々とした地上の空模様。それらを一つ一つ確かめるように眺めていく。
「この空の映像、地上のものをそのまま映しておるのか」
「はい。千里眼による投影でございます。地の底に居ながら空を望めるというのは、ヒトのお客様にとっても、魔族や魔物のお客様にとっても、それなりの目玉になるかと存じます」
「なるほどな。ちなみに、この宿の名の由来も聞いておこう」
「露天風呂で初めてこの投影を目にした夜、満月が浮かんでおりまして。それで、月下温泉宿と名付けさせていただきました」
「ほう、それは風流なことよ」
レグナスが豪快に笑い、隣のクレインも静かに口元を緩めた。
「アルド様のご発案には、いつも助けられております。私一人では決して至らなかった発想も多くございました」
フィリシアがそう補足すると、レグナスの視線が、ふと真っ直ぐにアルドへと向けられた。
「アルド殿。開業を控え、何か懸念事項はあるか」
改まった呼び方に、アルドは内心で軽く驚いた。普段のやり取りでは、もっと砕けた調子だったはずだ。だが、この場にはクレインという第三者もいる。初めて顔を合わせる形式張った紹介の場だからこそ、レグナスもあえて礼を尽くした呼び方を選んでいるのだろう――アルドはそう解釈し、深く気に留めることはなかった。
「特にはございません。従業員一同、皆意欲的に取り組んでくれております。あとは、明日を迎えるのみです」
「うむ、頼もしい返答よ」
満足げに頷いたレグナスに続き、それまで静かに控えていたクレインが、初めて自ら口を開いた。
「私からもよろしいでしょうか。従業員の皆様への教育体制について、差し支えなければお聞かせ願えますか」
「はい。開業までの準備期間中、施設の使い方や接客の基本については、一通りの共有を終えております。今後も、実務を通じて随時改善を重ねていく方針です」
「承知いたしました。丁寧なご対応、恐れ入ります」
さらにクレインは、手元の書付に目を落としながら続けた。
「もう一点だけ、よろしいでしょうか。ヒトのお客様と、魔族や魔物のお客様が同時に来訪された場合の対応について、何か取り決めはございますか」
「その点については、種族別の浴場区分と合わせて、受付での案内動線も分けております。混雑時の優先順位についても、既に従業員間で共有済みです」
「行き届いたご配慮、感服いたしました」
淀みなく交わされるやり取りそのものは、終始和やかに進んでいった。その様子を間近で見つめながら、フィリシアだけは涼やかに微笑んでいた。かたやアルド、レグナス、クレインの三人は、それぞれの立場ゆえの緊張を隠しきれず、どこか硬さの残る面持ちを崩せずにいる。四人の中で、明らかに一人だけ余裕のある態度を保っていたのが、他ならぬフィリシアだった。
「では、開業に向けて、引き続き励むといい」
そう言い残し、レグナスは足早に踵を返す。傍らのクレインも、去り際にもう一度、アルドとフィリシアへ向けて深々と丁寧な礼をしてから、その後を追った。最後まで一切の隙も見せない、徹底した所作だった。
去り際、レグナスは一度だけ振り返り、忙しなく立ち働く従業員たちの姿を、どこか眩しそうな目で見つめていた。
二人の姿が見えなくなると、アルドは大きく息を吐いた。
「……疲れたな、ああいうのは」
肩の力を抜くように、大きく伸びをする。冒険者時代、幾多の死線をくぐり抜けてきた男でも、こうした畏まった応対にはまた別種の疲労を覚えるものらしい。
「お疲れ様でした。堂に入ったご挨拶でしたよ」
「柄でもねえことをしたって自覚はある。だが、まあ……悪くない緊張感だったな」
フィリシアの労いに、アルドは苦笑いを浮かべながら、明日に控えた開業へと改めて気を引き締め直すのだった。周囲では何事もなかったかのように、従業員たちの点検作業が続いている。この慌ただしさの先に、いよいよ待ち望んだ開業の日が待っているのだと思うと、アルドの胸に静かな高揚が広がっていった。
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