第4話 転移の衝撃と迷宮で形成される社会
フィリシアが軽く手をかざした、その直後だった。視界が真っ白に染まったかと思うと、次の瞬間には全く異なる光景がアルドの目の前に広がっていた。
「……は」
つい先ほどまでいたはずの療養室は、跡形もなく消え去っている。代わりに広がっているのは、白い砂浜と、青く澄んだ海を望む断崖、あちこちに組まれた建設用の足場、そして忙しなく立ち働く魔物たちの姿だった。潮の香りを含んだ風が、絶えず吹き抜けていく。
「ここは……」
「十階層です。当初、温泉宿の建設を進めていた現場になります」
事も無げに告げられた言葉に、アルドは絶句した。瞬き一つの間もなく、階層そのものを飛び越えて移動させられていたのだ。転移魔法の存在自体は知っていたが、これほどまでに前触れもなく、抵抗感すら感じさせない移動は、これまでの常識を大きく超えていた。
冒険者として、転移系統の魔法を扱う術者と幾度か仕事を共にしたことがある。詠唱、魔法陣、対象の座標確認――どれほど手練れの術者であっても、それなりの準備と時間を要するのが常だった。それが今しがたは、指先を軽く動かしただけで、前触れも詠唱も一切なく、瞬時に階層をまたいで完了していた。
「今、一瞬で……いや、そもそも今のは、何だ」
「転移です。この程度、造作もありません」
淡々と返される言葉に、アルドは乾いた笑いを漏らすしかなかった。これが、この魔族――否、この補佐役という女の、日常における当たり前の一手なのだ。
「見ての通り、建設はかなり進んでおります。この温泉宿は、十階建てとして建設が進められております。ですが、アルド様の記憶からの情報から現状の冒険者たちの迷宮攻略の進度を鑑みるに、十階層での開業では利益を見込めません」
フィリシアの説明を聞きながら、アルドは周囲を見渡した。眼前に広がる紺碧の海、絶えず漂う不穏な魔力の気配。十階層といえば、A級冒険者ですら単独での到達は容易ではない領域だ。並みの実力の冒険者であれば、パーティを組んでもなお命の保証はない。
「そりゃそうだ。俺でも十階層はぎりぎりだった。あそこまで来れる連中なんて、そう何人もいねえ。採算なんて、端から取れるわけがない」
謙遜でも卑下でもない、客観的な自己評価だった。人類の冒険者全体で見れば、自分は間違いなく上澄みに位置する側の人間だ。所属していたギルドの中でも、戦闘実績だけで見れば三本の指に入る自負がある。国内でも指折りの規模を誇るギルドの中でその位置につけているという事実は、決して誇張でも思い上がりでもない。その自分をもってしてなお「ぎりぎり」と言わしめる十階層だ。並の実力の冒険者が採算に足るだけの人数、辿り着けるはずもない。
自らの経験を踏まえた率直な判断に、フィリシアは満足げに頷いた。
「では、どこが適切だとお考えですか」
「五階層あたりが妥当だろうな。それなりの実力がなきゃ辿り着けないが、絶望的ってほどでもない。ちょうどいい塩梅の場所だ」
長年の冒険者経験に裏打ちされたその判断は、単なる思いつきではなかった。到達難度と客の見込み数、両者の釣り合いが取れる階層を、瞬時に見極めた結果だった。アルド自身の口から出たその判断を確認すると、フィリシアは小さく頷いた。
「ご判断、承知いたしました。では、五階層へ移動いたします」
そう言うが早いか、フィリシアは指を軽く動かした。次の瞬間、周囲の景色が再び瞬時に切り替わる。切り立った岩壁と足場だけではない。組み上げかけの柱、積まれた資材、そして忙しなく作業を続けていた魔物たちの姿までもが、寸分違わずそのまま新たな場所へと移し替えられていた。ほんの瞬き一つの間に、建設現場そのものを丸ごと、階層を跨いで転移させてしまったのだ。
「……は?」
一度目の衝撃が収まらぬうちに、二度目の衝撃がアルドを襲った。だが、それ以上にアルドの言葉を奪ったのは、周囲の魔物たちの反応だった。
作業に従事していた魔物たちは、突如として景色が切り替わったにもかかわらず、誰一人として手を止めることも、驚きの声を上げることもなかった。まるで最初からそこで作業をしていたかのように、変わらぬ手つきで資材を運び、柱を組み続けている。
「……お前ら、今のが分かってて驚かねえのか」
思わず声をかけた魔物の一人が、きょとんとした顔で振り返った。
「え? ああ、五階層に変わったんですね。よくあることなんで、いちいち驚いてたら仕事になりませんよ」
あっけらかんと返された答えに、アルドは二の句が継げなかった。これほどの規格外の現象を、日常の一部として受け入れている者たちがいる。その事実こそが、一度目の転移そのものよりも、遥かに重い衝撃としてアルドの胸に突き刺さった。
驚愕すべき現象そのものよりも、それを驚愕とすら思わない日常がここにある――その事実の方が、よほど恐ろしい。自分がこれから足を踏み入れる世界の異質さを、アルドは今更ながらに肌で実感していた。
「五階層に変更いたしました。この程度、造作もありません」
繰り返されるフィリシアの言葉に、アルドはようやく乾いた笑いを取り戻した。同時に、意識を切り替えて周囲の空気を確かめる。先程まで身を置いていた十階層と、今こうして立っているこの五階層とでは、肌に纏わりつく空気の質そのものが違っていた。十階層で感じていた、骨の髄まで押し潰すような重い魔力の圧――あれに比べれば、五階層のそれは幾分か軽い。もちろん並みの冒険者からすれば十分に脅威的な重圧だろうが、幾多の死地をくぐり抜けてきたアルドの感覚からすれば、呼吸のしやすさが明らかに違っていた。
見渡す限りに広がるのは、緩やかに起伏する草原地帯だった。頭上には人工の太陽が穏やかな光を注ぎ、吹き抜ける風は、地上のどこか温暖な地方を思わせる心地よさを纏っている。先程までいた十階層の潮風とはまるで異なる、乾いた草の匂いが鼻先をかすめた。
「……改めてわかるが十階層とはまるで別物だな、ここは」
思わず漏れた呟きに、アルドは自分自身の中にある物差しの確かさを、改めて実感していた。頭では、五階層と十階層の負担の差を理解していたつもりだった。だが、時間をかけて自らの足で踏破するのと、こうして瞬時に転移させられ二つの重圧を続けざまに肌で味わうのとでは、感じ方がまるで違う。境目なく直接比較させられたことで、その差はより一層、生々しく際立っていた。
「では、先にお伝えした業務内容の通り、これから従業員たちにも顔合わせをお願いいたします」
「従業員……つまり、魔物ってことか」
「その通りです。それと、一つ補足しておきますと、この温泉宿を利用するのは、地上から訪れるヒトの冒険者だけではありません。迷宮内で暮らす魔族や魔物たちも、当然のように利用いたします」
「……は? 客層に魔族や魔物も含まれるのか」
「もちろんです。彼らも、この迷宮という場所で日々働き、暮らしている生活者ですので」
そう答えを返されながらも、アルドはふと別の違和感を覚えた。「ヒト」という響きが、耳慣れた「人間」という言葉とは、どこか発音の質感が違う気がする。聞き間違いかとも思ったが、何度か繰り返されるうちに、その違いは確信に変わっていった。
「……さっきから気になってたんだが、その『ヒト』って言い方、俺の知ってる『人間』とは、何か違うのか」
「よくお気づきになりましたね。『人間』というのは、あくまで人間族――狭義のヒト種のみを指す言葉です。ですが、人間界にはエルフやドワーフといった亜人も暮らしております。それらを含めて総称する際には、魔族の間では『ヒト』という呼び方を用いております」
「なるほどな。魔族側から見た、総称ってわけか」
「はい。ちなみに、これは魔族に限った話ではなく、天界の住人――天族の間でも、同様の認識で用いられている言葉だと聞き及んでおります」
思いがけず飛び出した「天族」という単語に、アルドは軽く眉を上げたが、フィリシアはそれ以上深く語ることなく、話を先へと進めた。
その言葉に、アルドの胸に一つの懸念が過った。自分は冒険者として、数え切れないほどの魔物と刃を交えてきた。この迷宮で働く誰かの親族を、かつて自分の手で葬っている可能性だって、決して低くはない。そんな相手に囲まれて、快く働けるものだろうか。
「フィリシア、少し聞いていいか」
次から次へと浮かんでくる疑問を、一つずつ整理しながら、アルドは改めて口を開いた。
「何なりと」
「俺は冒険者として、結構な数の魔物を殺してきた。ここで働く連中の中に、その関係者がいたっておかしくねえ。そういう心証面、大丈夫なのか」
素朴だが、切実な問いだった。フィリシアはその質問に、僅かに目を細めて答えた。
「アルド様のお気遣い、よく分かりました。ですが、その点についてはご安心ください。恐らく、人間界には正しく伝わっていない事実かと存じます」
「……どういうことだ」
「迷宮に所属している限り、魔族や魔物は精神体そのものが消滅しない限り、死ぬことはありません。冒険者に肉体を破壊され、いわゆる『討伐』に至った瞬間、肉体はそのままですが、精神体は自動的に治療室へと転移し、肉体は再構築され、損傷の治療が施される仕組みになっております。肉体も冒険者が部位を剥ぎ取られたら別ですが、放置された場合はしばらくすると迷宮に吸収され跡形もなく消えるようになっております」
思いもよらぬ説明に、アルドは目を見開いた。討伐した魔物の亡骸が、時間を置くといつの間にか消え去っている――それ自体は、冒険者であれば誰もが当たり前のように知っている現象だった。だが、その裏にどのような仕組みが働いているのかまでは、これまで考えたこともなかった。長年、当然のこととして受け流してきた光景の裏に、これほど明確な理屈が存在していたとは。
「……つまり、俺が今まで倒してきた魔物は、死んでねえのか」
「治療が間に合わず、精神体ごと消滅してしまう例も、皆無ではございません。ですが、それは十年に一度あるかないかという、極めて稀な事態です。アルド様と刃を交えた個体は確かにいるでしょう。ですが、アルド様が死なせた個体は、一体もおりません。これは断言いたします」
その言葉に、アルドの肩から、自分でも気づかぬうちに入っていた力が抜けていくのを感じた。長年、心のどこかに沈めていた小さな棘が、今ようやく抜け落ちたような感覚だった。
「それに、魔族や魔物にとって、戦いは誉れです。負けたことを恨みに思うような気風は、そもそもございません。そうした事情もあり、討伐した相手からの意趣返しをご心配なさるような気遣いは、不要かと存じます」
「……そうか。そりゃあ、随分と気が楽になったな」
思いがけない形で長年の不安の種が取り除かれ、アルドは心底安堵した様子で肩を回した。だが、すぐにもう一つの疑問が頭をもたげてくる。
「そういえば、一つ気になったんだが……ここは元々、危険な迷宮の中だろう。魔族や魔物と一緒に利用しているのも怪しむだろうし、魔族や魔物の中には、幼い子供だっているはずだ。そんな子供まで利用するってのは、正直、冒険者に怪しまれないか? 命がけの迷宮の中で、本来は敵対するはずの魔族や魔物と同じ施設に浸かって、しかも呑気に子供までいたら、そりゃ誰だって妙に思うはずだ」
素朴な、しかし切実な問いだった。冒険者として死線を潜り抜けてきたアルドにとって、迷宮という場所の危うさは、骨身に染みて理解している。そんな場所で無邪気にはしゃぐ子供の姿を目にすれば、警戒心の強い冒険者ほど、何かおかしいと勘繰りかねない。
「その点についても、ご安心ください」
フィリシアは事も無げに答えた。
「温泉宿の敷地内に限り、冒険者の皆様には、そうした光景を目にしても特段疑問に思わないよう、魔法によって精神へ僅かな作用を及ぼしております」
「……は? 精神を、操ってるってことか」
あまりに平然と告げられたその内容に、アルドは思わず声を上ずらせた。
「左様です。とはいえ、判断力や自由意志そのものを奪うような乱暴なものではございません。あくまで、過度な警戒心や不安感を和らげる程度の、穏やかな作用です」
「そんな真似、いつかバレたら大問題になるだろう。誰かが気づいて騒ぎ立てたら、それこそ――」
「破られる、あるいは露見する可能性を仰りたいのでしょうが、それはまずあり得ません。温泉宿全体に、従業員一人一人との盟約を組み込んだ術式を構築しております。この現象そのものの存在に気づくためだけでも、熟練の魔法使いが一万人ほど寸分の狂いなく連携して事に当たらねば、判明すらいたしません」
一万人という数字に、アルドは絶句した。そんな規模の魔法使いは、周辺国家の所属魔法使いを全てかき集めたところで、到底揃いはしない。想像することさえ馬鹿馬鹿しくなるほどの、桁外れの数字だった。
「……お前ら、いったいどこまで人間の理解を超えてやがるんだ」
呆然と呟くアルドに、フィリシアは特に得意げな様子も見せず、淡々と頷いて見せた。人知の及ばぬ力を、当たり前のこととして扱うその姿勢にこそ、アルドは改めて底知れなさを感じずにはいられなかった。
その一言に、アルドは軽い眩暈すら覚えた。これまで漠然と、迷宮とは魔物たちが無秩序に蠢く危険地帯だとばかり思っていた。だが、目の前で語られている内容は、まるで一つの街、あるいは一つの国のありようそのものだった。
「……迷宮って、そんなにちゃんとした仕組みで回ってるものなのか」
「はい。序列、役割分担、生活基盤――迷宮の内側には、人間社会と大差ない秩序が存在しています。むしろ、規模だけで言えば、地上のいくつかの小国を凌駕しているかもしれません」
淡々と告げられるその言葉に、アルドはこれまで抱いていた常識が、音を立てて崩れていくのを感じた。魔物とは、ただ本能のままに動く獣のようなものだと、心のどこかで見下していた部分があったのかもしれない。だが、実際にはこれほどの規模と秩序を持った、一つの社会がここに存在していたのだ。
「……地上じゃ種族が違えば大抵は反目し合う。血で血を洗うような対立だって珍しくねえ。魔族や魔物同士じゃ、そういう対立はねえのか」
素朴な疑問だったが、フィリシアはその問いに、僅かに考える素振りを見せてから答えた。
「個体同士の相性やいざこざとなれば、ないとは申しません。感情を持つ以上、それは人間も魔族も変わらないでしょう。ですが、迷宮という共同体を全体として見た場合、種族を理由とした大規模な対立は存在しません。迷宮内での序列は、力の強さや貢献度によって厳密に精査されておりますので、種族という括りそのものに争う理由が生まれにくいのです」
その答えに、アルドは黙って頷くしかなかった。個としての軋轢は否定しない。だが、全体としては秩序だって機能している――それは、人間社会が未だに成し得ていない、ある種の理想形にすら思えた。
人間界では、種族や出自の違いが、しばしば争いの火種になる。国境を跨げば言葉も文化も異なり、時に深刻な対立にまで発展する。それに比べれば、この迷宮という場所は、遥かに合理的な秩序の上に成り立っているのかもしれない。そんな考えが、アルドの胸中に静かに芽生えていた。
「迷宮の生態や、魔族や魔物と迷宮の関係について、他にも気になる点はおありかと存じます。折を見て、追々ご説明いたします。ただ、時間は有限ですので、まずは目の前の業務についてご理解を深めていただければと」
「……ああ、分かった。悪いな、話が逸れた」
そう言って、アルドは一旦その手の疑問を胸に収めることにした。
「……とんでもねえところに来ちまったな、俺は」
誰に言うでもない呟きが、五階層に広がりつつある温泉宿の建設現場に、静かに溶けていった。こうして、死してなお働かされる男の、新しい――そして想像を遥かに超えた日々が、本当の意味で幕を開けたのだった。
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