第3話 不死者雇用条件確認と温泉宿責任者就任
意識が戻った瞬間、アルドが感じたのは痛みではなく、奇妙な違和感だった。指先の感覚、肺に取り込む空気、瞼の重み――どれもが確かに感じ取れるはずなのに、どこか一枚膜を挟んだような微妙な隔たりがあった。
「……生きて、いるのか?」
上体を起こすと、粗末ながらも清潔な寝台の上。傷一つない自分の身体を見下ろし、混乱する。斬られた記憶、貫かれた感触、そして訪れたはずの死。それら全てが夢だったとは到底思えない。あの魔族の圧倒的な気配、迫りくる爪の感触、そして胸を穿たれた瞬間の静寂――どれも、生々しいまでに脳裏に焼き付いている。見渡せば、薬草の香りが微かに漂う簡素な一室。迷宮随一の治療施設の、その片隅にあてがわれた療養用の小部屋らしかった。
周囲を見回しながら、アルドは自らの記憶を辿り直す。あの黒獅子の魔族との死闘、爪が胸を貫いた瞬間の静寂、そして暗転した視界。あれで終わったはずの人生が、なぜか今、こうして続いている。
「いいえ、アルド様は一度、お亡くなりになりました」
涼やかな声に振り向くと、そこには見たこともないほど整った容姿の女性が立っていた。漆黒の長髪が、光の加減でわずかに艶やかな輝きを帯びている。一分の隙もなく整えられた体つきは、まるで美の結晶を丹念に削り出して形にしたかのような、芸術品じみた完成度だった。目を惹きつけて離さない、涼やかで気品ある顔立ち。淡い笑みを浮かべているが、纏う気配はどこか底知れない。
冒険者として各地を渡り歩いてきた中で、美しいと評判の令嬢や名の知れた踊り子など、それなりに人並み以上の容姿を持つ女性たちを、アルドは幾人も目にしてきたはずだった。だが、今目の前に立つこの女には、それら全てが霞んで見えるほどの圧倒的な何かがあった。比較の対象にすることそのものが、既に烏滸がましいとすら感じられる。それほどまでに、彼女は絶世という言葉がまさに相応しい美貌の持ち主だった。
――今、名前を呼ばれたか。
まだ名乗ってすらいない。それなのに、目の前の女は当然のように「アルド様」と呼びかけてきた。魔法には疎い自覚があったが、それでも人の意識や記憶に干渉する類の術が存在することくらいは知っている。人間界にも、精神に作用する禁術めいた技は幾つか存在すると聞いたことがあった。だとすれば、目覚める前に何らかの形で自分の内側を覗かれていたということだろう。そういう手段があること自体は、驚くほどのことでもない。だが、覚悟の上とはいえ、勝手に頭の中を弄られたという事実に、良い気分を抱けるはずもなかった。
「私は魔王の側近衆の一人フィリシアと申します。此度、魔王様の命令でアルド様の補佐を務めさせていただく者です」
淡々と告げられる説明を、アルドは黙って聞いた。誓約により心臓を貫かれた代償として不死者となったこと。この迷宮内を離れれば消滅すること。そして、これから開業する温泉宿の責任者としての就任を、拒否権なく命じられたこと。
「何故、俺が選ばれた。他にも冒険者はいくらでもいるはずだ」
当然の疑問を口にすると、フィリシアは淡々と答えた。
「アルド様の記憶は、既に確認させていただいております。齢四十を超えてなお現役、A級冒険者としての位階を保持し、単独で十階層台にまで到達した実績。これほどの人材は、そう易々と見つかるものではありません」
「……勝手に人の記憶を覗いたのか」
「業務上、必要な手続きでしたので」
悪びれる様子もなく告げられ、アルドは思わず言葉を失った。自分でも忘れかけていた過去の依頼歴や、若い頃の失敗まで、まるで手元の書類でも読み上げるかのように淡々と語られる。プライバシーもへったくれもない扱いに、抗議したい気持ちはあったが、既に死んでいる身でそれを主張したところで詮無いことだとも悟っていた。
「ちなみに、単独行動を貫かれるようになった経緯についても、把握しております。かつてのパーティでの一件についても」
「……そこまで、掘り返さなくていいだろうが」
苦い記憶に触れられ、アルドは思わず顔をしかめた。だが、フィリシアはそれ以上深追いすることなく、話を先へと進めた。その気遣いにも似た間合いに、アルドは僅かながら救われる思いがした。
「……つまり俺は、死んだ挙句、奴隷にされたと」
「言葉を選ばなければ、そうなりますね」
あっさりと肯定され、アルドは思わず失笑した。怒りよりも先に、乾いた笑いがこみ上げてくる。冒険者として散々死線を潜り抜けてきた男の性分か、絶望よりも先に「では、どうするか」という思考に切り替わっていた。長年、単独で幾多の死地を乗り越えてきた経験が、こういう時にこそ役に立つ。感情に飲まれて立ち止まるよりも、まず現状を受け入れ、次に何をすべきかを考える。それが、アルドという男の生き方だった。
「分かった。もう死んでるんなら、しょうがない。それで、俺は何をすればいい」
その切り替えの早さに、フィリシアは僅かに目を見開いた。予想していたよりも遥かに早い順応。内心で興味を強めながら、彼女は淡々と続けた。
「では、まず業務内容についてご説明いたします。アルド様には、これから開業する温泉宿の責任者として、施設全体の運営、労働環境の改善、そして従業員たちへの人間社会の常識共有を担っていただきます」
「施設運営に、労働環境の改善……随分と抱え込むことになるんだな」
「決して一人で全てを背負っていただくわけではありません。従業員たちとの連携も、業務のうちです。詳細は、これから彼らに直接お会いいただいた際に、改めてご説明いたします」
大まかな業務の全体像を頭に入れながら、アルドは小さく頷いた。何をすればいいのか分からないまま働かされるよりは、先に見通しを立てられる方が、まだ気は楽だった。
「業務内容については、以上です。続いて、勤務形態についてお伝えしておきます。住み込みでの二十四時間勤務となります。魔界労働基準法は、不死者である貴方には適用されません」
「……は? 二十四時間? 何日かに一度の当番って話じゃなく、毎日、休みなしでか」
「その通りです。もっとも、不死者の身体には、休憩も睡眠も、そして食事すらも本来は不要です。生命維持の必要がない以上、労働基準を定める意味そのものがない、というのが魔界側の理屈になります」
「そういう扱いになった前例が、これまでにあるのか」
ふと思いついて尋ねると、フィリシアは僅かに間を置いてから答えた。
「前例はございません。不死者という存在は、これまで一時的な使い捨ての手段としてのみ運用されてきました。恒久的な雇用として腰を据えて働かせる、というのは今回が初めての事例になります。それ故に、今回の件については魔王様のご指示が、通常の規定に優先される形となっております」
「一時的、ってのはどういう意味だ」
「不死者として一つの魂を留め置くには、絶えず莫大な魔力を注ぎ込み続ける必要があります。長期にわたって稼働させるなど、通常であれば無駄以外の何物でもありません。魔王様以外であれば、まず選ばれない選択肢です」
淡々と告げられたその内容に、アルドは思わず眉根を寄せた。
「……つまり、俺がこうして生かされてるのは」
「魔王様の、単なる思いつきによるものです。『勿体ない』と、そう仰せになったのが、全ての始まりでした」
あまりにあっさりと明かされた真実に、アルドはしばし言葉を失った。気まぐれ一つで生かされ、そして恐らくは、気まぐれ一つで終わる。魔王とやらの興味が失せれば、自分はきっと、灰も残さずに荼毘に付されるのだろう。それは想像に難くなかった。だが、敗者に選べる道など端から用意されていない。文句を並べたところで、状況が好転するわけでもない。ならば、今は黙って受け入れるしかない――アルドはそう腹を括ると、それ以上その話には触れないことに決めた。
「不死者ってのは、普段はどう使われてる」
気を取り直して尋ねると、フィリシアは淡々といくつかの用途を語り始めた。危険地帯への使い捨ての先兵。情報収集のための潜入。そして――生前の姿をそのまま保たせ、親しい者に近づかせた上で、体内に仕込んだ魔力を爆発させるという手口。
「そこまでだ。もういい」
聞くに堪えず、アルドは片手を上げて話を遮った。想像しただけで胸の奥が冷たくなる。だが同時に、ある違和感にも気づいていた。これまで戦ってきた数多の魔物たちの中に、そうした卑劣な手を使ってくる者は一人としていなかった。方法として存在するのに、実際には使われない。それはつまり、どこかで禁じられているということではないのか。
「今のは……禁止事項に指定されてる、ってことか」
「その通りです。倫理に反する手段は、迷宮の掟によって厳しく制限されております」
その答えに、アルドは意外の念を隠せなかった。人間界よりも、よほど法が整備されているのではないか――そんな疑念が芽生えると同時に、これまで漠然と恐れていただけの魔族や魔物という存在に、初めて興味に近い感情を抱き始めていた。
話の重さに、アルドは思わず口をつぐんだ。だが、フィリシアの説明はさらに続く。
「不死者の肉体は、生前とは根本から異なります。四肢の一部を欠損しても、たとえ脳を含めて半身が消滅するほどの重傷であっても、数瞬ほどで問題なく再生いたします。食事を摂っても、それを消化して排出する必要すらありません。取り込んだものは、そのまま身体を構成する糧となって消えていきます。つまり、貴方の肉体は、もはや人間としての生理現象や、あるいは『死』という概念そのものからさえ大きく解放されているのです」
あまりの内容に、アルドはしばし返す言葉が見つからなかった。脳を含めて半身が消し飛んでも、瞬きの間に元通りになる。もはや致命傷という言葉自体が、自分には意味を成さないということか。かつて幾度となく死線を潜り抜けてきた冒険者として、傷の深さと死の距離感には人一倍敏感なつもりだった。だが、その物差しそのものが、もはや自分には通用しないのだと思い知らされる。淡々と語られる内容は、まるで道具の仕様書を読み上げているかのようだった。だが、語られているのは他ならぬ、アルド自身の身体のことだ。
「……そこまで人間じゃなくなってるってことか」
自分の手のひらを見つめながら、アルドは複雑な表情を浮かべた。傷が勝手に治り、飯を食っても厠に行く必要すらない。便利と言えば便利だが、それはもはや「生きている」という実感そのものを奪われているようにも思えた。
「休憩も睡眠も不要となれば、俺には何も残らねえってことか」
思わず漏れた呟きに、フィリシアは僅かに首を傾げた。
「不要というのは、あくまで生命維持の観点からの話です。貴方が何かを求めるかどうかは、また別の話かと」
「なら、一つだけ頼みがある」
アルドは真っ直ぐにフィリシアを見据えた。その目には、これまでの淡々とした受け答えとは違う、確かな熱が宿っていた。
「食事の時間だけは、絶対に削らないでくれ。休憩も睡眠もいらねえっていうなら、それはそれで構わねえ。だが、飯だけは別だ」
「理由をお伺いしても?」
「俺は、一人で食う時も、誰かと囲んで食う時も、飯を食うことそのものが昔から好きでな。孤児だった頃、腹を空かせて過ごした日々が長かった分、食うこと以上の喜びを知らずに育った。それは今でも変わらねえ。だから、自然と味には煩くなっちまった。高そうな店の料理も、屋台の飾らねえ飯も、A級として稼いだ金で大抵は食い歩いてきた自負がある。安いものも高いものも、粗末なものも贅沢なものも、大抵の味は知ってるつもりだ。だからこそ、味わうことだけは、これから先も俺に残された数少ない楽しみになる。そこまで奪われたら、さすがに保たねえ」
懇願にも似たその言葉に、フィリシアはしばし沈黙した。その沈黙の間、彼女の視線がアルドの表情を静かに観察しているのが分かった。やがて、静かに頷く。
「承知いたしました。食事の時間については、業務の一環として正式に組み込みます。ただし、それであれば一つ、お願いしたいことがございます」
「……なんだ」
「この温泉宿の食事についても、人間の視点から改善のご助言をいただきたいのです。従業員たちの舌は、どうしても魔族や魔物の好みに寄りがちですので」
思わぬ形で新たな業務が追加されることになったが、アルドとしても異論はなかった。高級料理から庶民の素朴な味まで、幅広く食べ歩いてきた自負がある。むしろ、自分にとって唯一残された楽しみを、そのまま仕事に繋げられるのであれば、悪い話ではない。人間としての感覚を失わずに済む、数少ない拠り所を確保できたことに、内心では安堵すら覚えていた。
「分かった。それくらいなら、お安い御用だ」
こうして、アルドの勤務条件の中に、ただ一つだけ「食事の時間」という例外が刻まれることになったのだった。
「雇用条件については、これで一通りご理解いただけたかと思います。では次に、実際の現場をご覧いただきましょう」
フィリシアがそう告げた瞬間、アルドはまだ知らなかった。この後すぐに、二段構えの衝撃が自分を待ち受けていることを。
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