第6話 「おかえり」を君に・上
その日、左京さんから発せられた言葉に、驚いて固まった。
「……聞き間違い、でしょうか?」
「……君が信じられないのは、理解できる」
表情を余り動かすことなく、淡々と告げられるそれ。
指先が、勝手に震えた。
それに気が付いたらしい左京さんが、そっと執務机から立ち上がり、隣に立った。
「……ごめんな、避けてばかりは、おられへんと、思うて」
エセイントネーションに、ふっと肩の力が抜ける。
それでも、震えは止まらない。
ふわりと、温かい温もりに包まれた。
指先に視線を落とすと、すっぽりと自分の手を包む彼の手が見えた。
「ぬくいやろ?」
「……ええ」
「……常葉と、上条さんも連れて。
まどかの実家に、行こうと思っている」
改めて言われた言葉に、頷いた。
実家には、常葉を産んでから一度も帰っていなかった。
決められた日の午前、片桐家へと二人は並んで顔を出した。
ふわりとしたワンピースで現れた彼女と、落ち着いたシャツとスラックス姿の息子をじっと見つめる。
「お、上条さんのネックレス、ええね。
その青い石、常葉の目の色や!」
左京さんの言葉に、上条さんはふふっと柔らかく笑う。
「義理の兄に、誕生日に頂いたんです。
ブルートパーズらしいです」
「へぇ。
俺も買おかな」
左京さんの視線が、わたしの耳元で留まる。
「まどかも、今日は青やな」
サファイアのイヤリングは、常葉の目より深い青だった。
「……わたしも、ブルートパーズにすれば良かったかしら」
常葉そのものの色は、避けてきた。
それを感じ取っていたのだろう、常葉の目がわたしの耳を一瞬見た後はまた逸らされた。
「……みんなして、なんなんだよ」
その言葉は苛立っているようで、胸が詰まった。
彼には今更過ぎた。
「みんな、常葉が好きってことだよ」
何の気なしに、さらりと言ってのける彼女の言葉に、常葉の頬が薄く色付く。
そして、恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに目を細めた。
わたしには、決して向けられない表情。
だけど、それでいい。
常葉が、そうやって笑えるようになってくれて、本当に……良かった。
「上条さん」
わたしの言葉に、常葉が少しだけ気を張るように、彼女の手を握る。
「良かったら……着物を、着てみない?」
「必要ない」
わたしの言葉を、ばっさりと切ったのは常葉だった。
「足、歩きにくいんちゃう?
怪我したらあかんし、無理に着せんでも」
左京さんも、あまり賛成ではないらしい。
無理に押し通すつもりはないので、言ってみただけと会話を終わらせようと思った。
「構わないですよ?」
わたしから守ろうとした常葉と左京さんの言葉は、彼女自身の言葉で覆された。
「いや、でも……!」
それでもまだ止めようとする常葉に、上条さんはにっこりと微笑み返す。
「着物、着てみたかったし。
ちゃんと杖もあるし、着物だからゆっくり歩いても違和感少ないし、へーきへーき」
「……わかった」
じろりと、常葉が釘を刺すような目で見つめてくるのがわかる。
完全に睨むのではないそれに、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
目を見ないようにしてきた。
常葉も、成長してからはわたしの目を見ない子だった。
今はまた見つめてくれる。
取り返せないものも、ある。
罪は、消えない。
だけど、間に合ったものもあった。
着替えのために、衣装部屋へと通した。
仕事で使うものではない。
彼女に着せられたらと思って、自分の私物から用意していたものだった。
「きれいな、振袖ですね」
「実家の母がね、色々と娘時代に作ってくれたものなの」
振袖のまま、袖を切らずにいた理由は自分でもわからない。
娘時代のものは、大人の女性には合わないと思ったのか。
訪問着にするには、柄が美しく見えないと思ったからか。
「上条さんのイメージなら、これかしら」
「……これ、絶対高いですよね」
白から黒へとグラデーションを描く地に、牡丹と石楠花の花が鮮やか。
儚げに見えて、芯は強い。
「わたしの私物だから、汚れとか気にしなくていいわよ。
あげるつもりだったし、そのまま着て帰ってもいいわ」
「いや……そんな!
高価なものは、そうほいほいと貰えません」
きっちりと線を引く姿に、残念と頷いた。
この子は、身体にハンディはあっても、男に依存して生きていない。
常葉を、頼るんじゃなくて支える子なのだと気が付いたとき、羨ましかった。
わたしの、理想の妻の姿だった。
着替えのために洋服に手を掛けたところで、彼女の動きが止まる。
「あ、俺……」
呟かれた言葉に、首を捻る。
一人称、男性的ねと言おうと思ったところで、着替えの手を止めた彼女が振り向く。
「……こんな身体でも、この着物着ても良いのでしょうか」
「……?
別に、足が悪い人が着てはいけないという、決まりはないわ」
わたしの言葉に、彼女は首を横に振る。
「……胸もない、柔らかくも丸みもない……」
自己否定的な言葉に、静かに驚いた。
「着物は、身体のラインが出ない方がいいから。
スレンダーな方が詰め物も要らなくて、きれいよ」
わたしの言葉に、またも彼女は首を振る。
「……いえ、俺は……男です」
「……え?」
言葉の意味を、理解するまで時間が掛かった。
けれど、今思い返せばヒントはいくつもあったように思えた。
「……男性でも女性でも、着てはいけないということは、ないわ」
わたしの言葉に、彼が着ていたワンピースを脱いだ。
そっと、着物を肩に掛ける。
紐を結びながら、慣れない着物に緊張したのか小さく彼が息を吐いた。
「着物は、緊張しちゃうよね」
「……少し、背筋が伸びますね」
「……ええ、そうなの」
上条さんは、予想通り似合っていた。
長い髪は、艶やかできれいで、若さを感じる。
肌もきれい。
「……これで男性と言われても、誰も信じないかもしれないわね」
わたしも、半信半疑。
確かに身体は薄いが、そういう女性もいないわけではない。
身長もわたしとそれほど大きくは変わらない。
男性にしては小柄で華奢だ。
「……常葉さんの、隣に立っても違和感がない姿に見られるのは、ありがたいです。
元々スカートは足のハンディがすぐに伝わるのと、装具が触りやすいから選んでいました」
「確かに、合理的ね」
初めて会ったときは、常葉の足を引っ張る存在に見えたのに。
今はまったくそうは思えないのは、わたし自身の心のあり方が変わったからだろうか。
自分勝手なものよね、と自分に呆れる。
「……どんなに望んでも、子どもの産めない身体です」
いつかの、自分の言葉が返ってきた。
“――そんな身体で、常葉さんの子どもを産めるのかしら”
ひどい言葉を、投げかけたものである。
こんな女しか選べなかったの、と笑う自分の声が頭に響いた。
あの言葉を投げかけたあと、左京さんの目が見られなかった。
退出を許された瞬間、飛び出して一人で泣いた。
呆れただろう。
がっかりしただろう。
もう、早くこんな女いらないと、捨ててくれと願った。
いつ切り捨てられるのか、あの頃はずっと怯えて生きていた。
今だからこそ、自分からきっかけを作りに行ったんだとわかる。
常葉の恋人を利用してすることでは、決してなかった。
「……わたし、次の子はもう産むなと、常葉を産んだときに言われたの」
上条さんは、静かにじっと耳を傾けてくれた。
小さく頷く姿に、安心する。
こんな話をするつもりなんてなかったのに、気が付いたら話していた。
きっと、誰かに聞いて欲しかった。
上条さん以上に、相手にぴったりな人はいない。
「……常葉を産んだときに、色々、あって。
精神的にも、おかしくなった」
「……産後ですから、ね」
静かに伏せられた目は、何か彼も思うところがありそうだった。
一つ頷くと、上条さんもぽつりと話し出す。
「俺の母も、産後うつと育児ノイローゼで。
父は精神科医なのに、何も出来なかったと悔いていました」
「……医師でも、上手くいかないものなのね」
わたしの言葉に、上条さんは苦笑しながら頷いた。
「……左京さん、前に医者の言葉に従って、二十四年間そっと刺激しないように距離を持ち続けたこと。
ほんまに正しかったんやろかと、自分で考えて動けと母に言われ続けたのにって悔いていました」
「……ライブハウスで、ノリノリでちょっと捻くれた歌を歌っていても。
根は生真面目でお坊ちゃまだから……素直に言うこと聞いちゃうのよね」
わたしの言葉に、上条さんもくすりと笑う。
「……産めないわたしへの苛立ちを、あなたにぶつけてしまってごめんなさい」
上条さんは、静かに微笑みながら首を横に振った。
部屋を出たところで、左京さんと常葉が揃って同じように心配した目を向けてきた。
それも、上条さんの姿を見つけるとすぐに見惚れたようなぽかんとした姿に変わる。
「きれい、でしょう?」
上条さんの肩に手をかけ、微笑んだ。
一つの作品としても成り立つような、そんな佇まいに二人は同時にスマートフォンを取り出す。
「ちょっと待って、スマホ取り出す前に何か言うこと無いわけ?」
笑いながら、上条さんが突っ込みを入れる。
「え、いや……きれいだなと思って」
常葉の言葉に、左京さんも頷く。
「せや、きれいや」
「もう、しょうがないなぁ」
上条さんは一つ頷くと、こちらに振り返り、わたしの髪の毛を一房掴んだ。
どこか妖艶な笑みを浮かべて、きれいと呟く。
女性ものの着物を纏い、長い髪を結った姿なのに。
初めて、彼が男に見えた。
「あかん! あかん奴やわ、それ!!」
「朔、調子に乗るな!」
慌てる二人に笑いながら、そっと上条さんを抱きしめた。
「母と息子の写真くらい、調子に乗ってもいいじゃない」
スマートフォンを傾けたまま、同じような表情で固まる二人は確かに父子だった。
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