第60話 設備は直せる。でも「ここが家だ」とは、俺には決められない
翌朝。
地下街の掲示板に、大きな紙が貼られていた。
《第九地下居住区 今後についての住民意見》
アデルが見て、珍しく少し感心した声を出した。
「昨夜のうちに作成したようでございます」
紙の下には三つの箱が置かれている。
ここに残りたい。
地上へ移りたい。
分からない。
「投票?」
湊が聞く。
ガドが答える。
「投票じゃない。名前も書かせん。ただ今まで誰も聞かなかったから、まず聞くだけだ」
レナが頷く。
「その方がいい。今ここで多数決しても、少数側がまた追い出されるだけになる」
昼までに紙片が集まった。
残りたい――多い。
地上へ移りたい――それなりにいる。
分からない――もっと多い。
湊は箱を見た。
「決まらないね」
「一晩で人生の居住地を決めろという方が無理」
レナの返答は即座だった。
その間にも設備の問題は見つかる。
排水。
換気。
崩落しかけた旧通路。
子どもが遊ぶ区画の照明。
湊は一つずつ直した。
ただし私室には触れない。
住民が使っている路地の形も勝手に変えない。
「ここ、広げれば通りやすいけど」
湊が細い路地を見て言うと、ルゥが首を振った。
「この角、子どもが隠れる場所」
「必要?」
「必要だった」
過去形だった。
湊は壁を動かさなかった。
代わりに照明だけ増やした。
午後。
地上側の市政官が降りてきた。
「復旧作業はありがたい。しかし、当区画は暫定居住施設です」
ガドが笑う。
「四十年住んで暫定らしい」
市政官は聞こえないふりをした。
「安全性が向上した場合、都市資産として再編する可能性があります」
地下街が静まる。
湊が聞いた。
「再編って?」
「適正利用です」
レナがすぐに入る。
「定義がない。誰にとって適正?」
「都市全体にとってです」
ヴェルナが壁にもたれたまま言う。
「魔族領で同じことを言えば、『価値が出たから取り上げる』という意味だ」
「そのような意図では――」
アデルが微笑む。
「では、その意図ではない旨を文書化いたしましょう」
市政官の顔が固まった。
「住民の居住権を復旧前後で不利益変更しない。種族、能力、出自を理由とする強制退去を行わない。地上移住を希望する者には選択肢を用意する。地下残留を希望する者にも同等に選択権を認める」
「そこまでの権限は私には……」
「でしたら、権限をお持ちの方をお呼びください」
アデルの声は最後まで穏やかだった。
交渉は六時間続いた。
その間、湊は一度も口を挟まなかった。
途中で眠くなり、レナに肘で起こされたくらいだ。
夕方。
暫定合意が成立した。
まだ絶対契約ではない。
住民側が内容を確認する時間を取るためだ。
ガドが紙を読む。
「……急がせないのか」
アデルが答える。
「自由意思による合意でなければ、私の契約は成立いたしません」
「悪魔の方がまともな契約するんだな」
「よく言われます」
ヴェルナが横を見る。
「魔族領では聞いたことがない」
「今後広めていただければ幸いです」
夜。
SYSTEMの再診断を行った。
【主要設備稼働率:83%】
【居住安全性:改善】
【住民意思確認:進行中】
そして。
【SANCTUARY CONDITION:UNFULFILLED】
湊は表示を見る。
「まだだ」
レナが頷く。
「むしろ当然。設備を直しただけだから」
「契約も?」
「契約は追い出されないための最低条件。ここを自分の場所だと思えるかは別」
その時、後ろから声がした。
地下街の小さな女の子だった。
頭に短い獣耳がある。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「この壁、直さないの?」
指差した先には、子どもの背丈ほどの落書きが並んでいた。
花。
家。
意味の分からない生き物。
壁自体には大きな亀裂がある。
「危ないから補強はするよ。でも絵は残す」
「なんで?」
湊は少し考えた。
「君のだから?」
女の子は首を振る。
「みんなの」
その瞬間。
SYSTEM表示が一度だけ揺れた。
【共同帰属反応:微弱】
湊は目を細めた。
設備ではない。
契約でもない。
壊れかけた壁に描かれた落書きの方へ、SYSTEMは反応した。
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