第53話 神様が「ここに置け」と言ったので、住民票を一枚増やした
北部第四Sanctuaryの応急修理が終わり、E-07から通信が届いたのは五日目の朝だった。
【主要生命維持機構:暫定安定】
【神性維持区画:再構築可能】
【住民個体アレシア:帰還受入可能】
食堂で表示を見たアレシアの手が止まった。
ちょうどパンへジャムを塗っているところだった。
「帰れるね」
湊が言う。
アレシアはジャムのついたナイフを見たまま答えない。
フィアが覗き込む。
「帰るなの?」
「……妾の社じゃからな」
シエラが頷く。
「故地へ戻るのは自然なことだ」
ヴェルナは何も言わない。
魔族領を自分で離れた彼女には、帰るという言葉の重さが分かるのだろう。
ミナが静かに尋ねる。
「朝ごはん、包みましょうか?」
「なぜじゃ」
「移動中、お腹空くかもしれないので」
アレシアが少しだけ顔を伏せる。
「……頼む」
湊たちは帰還の準備を始めた。
アレシアの荷物は少ない。
折れた槍。
北部の木皿。
Sanctuaryで使っていた服が二着。
それだけだった。
ところが部屋を出る直前、アレシアが棚の前で止まった。
そこには昨日置いたリンゴがある。
「それも持ってく?」
「……いや」
「腐るよ」
「分かっておる」
アレシアはリンゴを手に取り、しばらく見た。
そして突然言った。
「この部屋は、誰かに使わせるのか?」
「空いたら次に必要な人が使うんじゃない?」
「……そうか」
妙に沈んだ声だった。
ルゥが廊下の向こうから鼻を鳴らす。
「帰りたい匂いじゃない」
「何じゃそれは!」
「帰りたい時と違う」
「獣人の鼻で神の心を決めるでない!」
レナが壁にもたれた。
「じゃあ条件を整理しようか。北部へ戻る義務がある?」
「……ない」
「E-07が戻れと言ってる?」
「言っておらぬ」
「ここに残ると北部Sanctuaryが壊れる?」
「応急運転なら妾がおらずとも維持できる」
「なら、残りたいかどうかだけじゃない」
アレシアが黙る。
湊は急かさなかった。
フィアも珍しく何も言わない。
しばらくして、アレシアは胸を張った。
「……よかろう」
神らしい声だった。
「妾は、この地を新たな神域として認める」
SYSTEMは反応しない。
アレシアの眉が動く。
「そして、この者どもを我が眷属として――」
反応なし。
フィアが首を傾げる。
「嘘っぽいの」
「嘘ではない!」
ヴェルナが淡々と言う。
「魔族領でも、交渉相手が本音を隠している時は大抵前置きが長い」
「そなたら、神への敬意はどこへ置いてきた!」
シエラが真面目な顔で答える。
「食卓の席には置いてある」
「意味が分からぬ!」
食堂に笑いが広がった。
アレシアは耳まで赤くする。
最後に、湊を見る。
「……主よ」
「湊でいいよ」
「では湊」
一度息を吸う。
「妾を、ここに置け」
今までで一番短い言葉だった。
湊は頷いた。
「うん。部屋そのままでいい?」
「よい」
「じゃあそのままにしとく」
その瞬間。
SYSTEMが鳴った。
【自由意思による居住地選択を確認】
【神性個体と共同帰属領域の相互接続を確認】
【SP+216】
湊は数字を見る。
以前なら「多いな」と言ったかもしれない。
今回は何も言わなかった。
代わりに、新しい表示が続く。
【Sanctuary Resident:アレシア】
【
【効果:領域内住民への精神汚染・恐慌・呪詛耐性補助】
【神性回復率に応じ、機能拡張】
アレシアが目を見開く。
「妾の神域が……この場所へ接続された?」
アデルが表示を確認する。
「支配権の移譲ではございません。共同領域機能として統合されています」
「つまり?」
レナが答える。
「アレシアがみんなを強制的に守るんじゃなくて、Sanctuaryの防御の一部になったってこと」
アレシアはしばらく黙った。
「……悪くない」
フィアが飛び上がる。
「じゃあ今日から神様も住民なの!」
「妾は神であり住民じゃ!」
「ゴミ出し当番もやるなの?」
「神にゴミを出させる気か!?」
ミナが住民当番表を持ってくる。
「来週、共有廊下の掃除が空いてますよ」
アレシアは表を見る。
神代から生きる戦と勝利の亜神。
その指先が、恐る恐る一つの欄へ触れた。
「……箒は使える」
「ではお願いします」
「うむ」
その日の午後。
住民名簿が一人分増えた。
神殿ではなく、小さな個室に住む神様。
祈られるより先に当番表を渡された神様。
そして夜。
アレシアは自分の部屋へ戻る前、食堂の入口で一度だけ振り返った。
「……おやすみ」
神託でも命令でもない。
誰にでも言える、ごく普通の言葉だった。
「おやすみ」
いくつもの声が返ってきた。
神性反応が、ほんの少しだけ上がった。
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