第39話 神でも破れない契約なのに、署名するまでが一番大変だった
暫定協定の署名日。
朝からアデルは機嫌が良かった。
正確には、いつもと同じ完璧な微笑みだったが、紅茶を置く角度がいつもより一度だけ丁寧だった。
「楽しそうだな」
「数千年ぶりの正式な多種族間契約でございますので」
「趣味なんだ」
「職務です」
「顔が趣味の顔してる」
「我が主は時折、妙なところだけ鋭いですね」
署名式は配信されることになった。
人間側は透明性のため。
魔族側は相手だけに記録を握らせないため。
Sanctuary側は――
「配信した方が後から説明しなくて楽だから」
という湊の理由だった。
コメント欄は開始前から速い。
『例の悪魔執事いる?』
『外交官が世界災害級って人材配置おかしい』
『魔王本人より執事の方が魔王っぽい』
「我が主。最後の意見には私も一定の理解を示します」
「示さなくていいよ」
署名前の最終確認が始まった。
ここで問題が起きた。
人間側が一文を追加していた。
《緊急時、人類公共安全のため必要と判断される場合、Sanctuaryへの立入検査を可能とする》
ヴェルナが机を叩く。
「聞いていない!」
「国内承認を得るために必要な条項だ」
「なら魔族側にも同じ権限を寄越せ」
「それは認められない」
空気が一気に戻った。
以前なら、ここで交渉は壊れていただろう。
アデルは何も言わない。
湊を見る。
「俺?」
「我が主の領域に関する条文でございます」
「アデルが決めないの?」
「私は契約を守らせる者。何を約束するかを奪う者ではございません」
湊は追加条文を読む。
少し考える。
「検査って必要なの?」
人間側代表が答える。
「危険物、指名手配者、未知の魔物などが流入した場合には必要だ」
「じゃあ、人間側だけじゃなくていいんじゃない?」
「何?」
「危ないものがあるなら、誰が持ち込んでも危ないだろ」
ヴェルナが湊を見る。
湊は続けた。
「人間側、魔族側、Sanctuary側から一人ずつ出して三人で確認する。緊急って言うなら、後で理由も公開する」
「機密事項が――」
「じゃあ入らなくていいよ」
あっさり言った。
「入る権利が欲しいなら、勝手に入れない仕組みにした方がいいと思うけど」
沈黙。
レナが小さく笑った。
「そういうところ、交渉向きなのか不向きなのか分からないわね」
アデルは静かに修正文を書いた。
最終条文。
《重大な公共危険が合理的に疑われる場合、三者合同監査を要請できる。監査は人間側・魔族側・Sanctuary側各一名以上で実施し、事後に要請理由および結果を公開する》
人間側代表が読む。
魔族側も読む。
長い沈黙の後、双方が頷いた。
アデルが初めて立つ。
「では確認いたします」
室内の温度が下がった気がした。
「本契約は、脅迫・魅了・精神支配・虚偽認識によらず、各当事者の自由意思にて締結されるもので相違ございませんか」
一人ずつ答える。
「相違ない」
「同意する」
湊の番。
「はい」
「我が主だけ軽いですね」
「同意します」
「結構」
署名。
最後にアデルが指先を契約書へ触れた。
黒い光が走る。
【絶対契約】
文字が一瞬だけ浮かび、消えた。
派手な爆発もない。
雷も落ちない。
「終わり?」
「終わりでございます」
配信コメントが流れる。
『地味w』
『世界最強の契約なのに判子より静か』
『破ったらどうなるの?』
湊も同じことを聞いた。
「破ったらどうなるの?」
アデルは微笑む。
「破れません」
「いや、だから破ろうとしたら」
「行為そのものが成立しません」
例えば一方的に高い税率を課そうとすれば、契約対象の交易処理としてSYSTEMが認識しない。
無断で越境監査しようとすれば、境界権限が拒否する。
契約当事者の公的命令であっても同じ。
「神が命令しても?」
人間側代表が半信半疑で聞いた。
アデルの笑みが少しだけ深くなる。
「署名された契約に神の名はございませんので」
コメント欄が爆発した。
『怖っ』
『執事さんマジで何者!?』
『魔王軍の法務部が最強すぎる』
湊は契約書を見ながら言った。
「これで仲良くなる?」
ヴェルナが即答する。
「ならない」
「ならないの?」
「約束を破れなくなっただけだ。信用はこれから作る」
人間側代表も苦笑した。
「その通りだ」
湊は少し考えて頷いた。
「じゃあ、これからだな」
その言葉の方が、契約成立より静かだった。
しかしその夜。
SP表示がわずかに増えていた。
【SP+3】
「少な」
レナが横から覗く。
「今日あれだけ大変だったのに?」
「アデルの時四百八十だった」
「比較対象がおかしいのよ」
湊は首を傾げた。
協定を結んだ人数は多い。
世界的にも大事件だ。
なのにSPは、たった三。
「やっぱり人数でも、事件の大きさでもないな」
SYSTEMは何も答えなかった。
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