第38話 世界最悪の大悪魔に、会議の議事録を頼んでみた
アデルがSanctuaryで暮らし始めて、最初に変わったのは外交ではなかった。
書類だった。
「我が主。こちらへ署名を」
朝食を食べていた湊の横へ、薄い紙が一枚置かれる。
「昨日まで箱三つ分あったよね?」
「不要な重複資料を除外し、回答が必要なもののみ整理いたしました」
「一枚?」
「裏面もございます」
「二枚か」
ミナが鍋を持ったまま、感動したようにアデルを見る。
「神様ですか?」
ヴェルナが即座に首を振った。
「悪魔だ」
「今はどっちでもいいです」
「良くない」
アデルは気にした様子もなく、湊の横へ紅茶を置いた。
「本日の協議は正午。人間側代表三名、魔族側代表二名。議題は境界通行、居住者の法的扱い、交易、犯罪者引き渡しの四点でございます」
「多いな」
「前回、我が主が『だいたい仲良くすればいいんじゃない?』でまとめようとなさいましたので、今回は私が事前に分類いたしました」
「駄目だった?」
「思想としては結構。条文としては零点でございます」
レナが肩を震わせた。
「思想を条文化する途中で別物になってるじゃない」
正午。
新しく整備した会議室には長机が一本置かれていた。
片側に人間側代表。
反対側に魔族側代表。
中央にSanctuary側。
湊、レナ、ヴェルナ。そしてアデル。
シエラは扉脇。ルゥは廊下側で周辺警戒。フィアは「話が長いの!」と言って森へ逃げた。
会談が始まって十五分。
早くも揉めた。
「魔族居住者が人間領へ出た場合、現行法では敵性個体として拘束対象になり得る」
人間側代表の言葉に、ヴェルナの眉が動く。
「なら人間が魔族領へ入った場合も同じだ。こちらだけ譲る話ではない」
「だから相互通行許可証を――」
「その許可を誰が発行する?」
議論が止まる。
前回と同じ問題だった。
双方とも相手を信用していない。
人間側の代表がアデルを見る。
「……そちらの方が保証すると聞いている」
アデルは微笑んだ。
「私は**合意された契約の履行**を保証いたします。しかし、合意していない内容を押しつけることはできません」
「強制できないのか?」
「できますが、いたしません」
室内が静かになった。
湊がアデルを見る。
「できるんだ」
「我が主。今そこへ食いつく場面ではございません」
魔族側代表が慎重に問う。
「では、貴公は何をする?」
「文言の曖昧さを除きます。双方が自由意思で署名した後は、どちらにも同じ条件で履行を求めます」
「人間にも?」
「当然です」
「魔族にも?」
「契約に種族欄はございません」
ヴェルナが小さく息を吐いた。
そこから会談は進んだ。
通行許可は人間側・魔族側のどちらかが一方的に発行するのではなく、Sanctuary内に中立受付を置く。
武装したままの越境は禁止。ただし護身用装備は双方同条件。
犯罪容疑者の引き渡しは、自動ではなく証拠確認と本人への聴取を挟む。
交易品への税率も、一方だけ高くできない。
全部、派手ではない。
だが湊には分かった。
「これ、結構大事なんだな」
レナが目を細める。
「必要性を理解するまで、実物の扉が要るのね、あなた」
「だって扉直す方が分かりやすいし」
アデルが静かに議事録を書き続けている。
そして最後の条文がまとまった。
【Sanctuary暫定相互通行協定】
まだ署名はしない。
人間側も魔族側も、一度持ち帰って確認することになった。
会議が終わり、全員が席を立つ。
湊はアデルの紙を見る。
「何書いてたの?」
「議事録でございます」
「見せて」
一枚目。
『人間側代表、敵性指定制度の例外規定を提案』
二枚目。
『魔族側代表、相互主義を要求』
三枚目。
『我が主、“だいたい同じにすれば揉めないのでは”と発言。意図を法的文言へ翻訳』
「俺だけ雑じゃない?」
「原文の忠実な記録でございます」
「消せない?」
「歴史資料になりますので」
「嫌だな」
その夜。
SYSTEMに新しい表示が出た。
【領域機能候補:中立受付】
【領域機能候補:対外会議室】
SPは増えていなかった。
湊は少し意外に思う。
だが、嫌な感じはしなかった。
今日やったのは誰かを助けて仲間にしたことではない。
違う者同士が、殴り合わずに話す場所を作っただけだ。
「こういうのも、迷宮改変なんだな」
「物理的には一切改変しておりませんが」
背後からアデルが答えた。
「意味は変わっただろ」
悪魔公爵は一瞬だけ目を細めた。
「……仰る通りでございます、我が主」
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