第37話 数千年封印されていた大悪魔に、まず部屋の感想を聞かれた
黒い扉が開いた。
その瞬間、空気が重くなった。
魔力という言葉だけでは足りない。
空間そのものが、何か巨大な存在を中心に形を変えようとしている。
ヴェルナが一歩下がった。
「……あり得ない」
シエラは剣を構えたまま動かない。
レナの頬にも汗が伝っている。
ピィだけが湊の肩で首を傾げた。
部屋の中央に、一人の男が立っていた。
長身。黒に近い銀髪。古風な礼装の残骸をまとっている。
額には細い角が二本。
目は深い紅色だった。
しかし、その姿以上に異常なのはSYSTEM表示だった。
【個体識別:不能】
【旧SYSTEM管理権限保持】
【危険度:測定上限超過】
【推奨行動:――】
最後の欄は空白だった。
「推奨ないんだ」
湊が言うと、レナが小声で返した。
「逃げても無駄って意味じゃないでしょうね」
男は周囲を見回した。
新しく直された床。
壁。
寝台。
机。
そして最後に湊を見る。
「問おう」
声は静かだった。
「我が封印を解いたのは、貴殿か」
「たぶん」
「たぶん?」
「部屋直してたら鎖が邪魔だったから」
男の眉がわずかに動いた。
ヴェルナが震える声で言う。
「湊。そいつが何者か分かっているのか」
「知らない」
「古い魔族の伝承にいる。《契約公》……いや、《終約の公爵》」
男がヴェルナへ視線を向けた。
「その呼称は嫌いではない。後世は多少、言葉を選ぶようになったらしい」
ヴェルナの顔色がさらに悪くなる。
「国家間の条約を一夜で無効にし、七王国を滅ぼした悪魔だと伝わっている」
「正確ではない」
男は淡々と訂正した。
「私は条約を無効にしていない。彼ら自身が破った契約の結果を、執行しただけだ」
「似たようなものでは?」
レナが呟いた。
男は少し笑った。
「現代人は率直だ」
そして湊へ向き直った。
「私はアーデルハイド・ヴァル=クロイツ」
一瞬、ヴェルナが目を見開いた。
「……その名」
「長いならアデルでいい?」
今度こそ全員が湊を見た。
悪魔公爵本人も数秒黙った。
「私の真名を短縮した者も、貴殿が初めてだ」
「嫌なら戻すけど」
「いや。許可しよう」
アデルは部屋を見回した。
「それで。代価は何だ」
「代価?」
「私を解放した対価だ。魂か、領域か、敵対者の滅亡か。あるいは契約そのものか」
「別にいらないけど」
その言葉で、男の表情が初めて止まった。
「……何?」
「勝手に部屋直しただけだし」
「我は数千年、ここへ拘束されていた」
「うん」
「貴殿はその拘束を解いた」
「結果的には」
「ならば権利を主張せよ」
「なんで?」
静寂。
ヴェルナが顔を覆った。
レナはもう何も言わなかった。
シエラだけが、ほんの少し笑っていた。
アデルはゆっくりと湊へ近づいた。
圧倒的な威圧感がある。
だが敵意は感じない。
「契約とは、権利と義務を定めるものだ。恩には対価があり、救済には債務が生じる。それが世界の秩序である」
「そうかな」
「違うと?」
湊は少し考えた。
「助けたピィから何か取ったことないし。ルゥもフィアもシエラもヴェルナも、借金でここにいるわけじゃないよ」
肩のピィが胸を張った。
「ピィ!」
「住みたいから住んでるだけ」
アデルの紅い目が細くなる。
「……なるほど」
彼は突然、片膝をついた。
ヴェルナが息を呑む。
シエラも驚いている。
「では、契約を提示しよう」
アデルの前に黒い文字列が浮かぶ。
【絶対契約】
SYSTEMが警告を表示した。
【旧権限契約を検出】
【締結後の一方的解除:不能】
【内容確認を強く推奨】
湊は契約文を読んだ。
そこには、アデルが湊へ永続的に奉仕すること。湊の敵を敵とし、領域を守り、外交・契約・法務を担うことが書かれている。
代わりに湊が負うものは――ほとんどない。
「これ、アデルが損じゃない?」
「恩には対価が必要だ」
「じゃあやらない」
「……何?」
契約文字が揺れた。
「一方的すぎるし。住みたいなら住めばいいよ。仕事したいなら、できること手伝って」
アデルは膝をついたまま、湊を見上げている。
「契約なく?」
「うん」
「私が裏切る可能性もある」
「その時考える」
「世界を滅ぼせる存在だぞ」
「でも今、ベッド気にしてたじゃん」
アデルが完全に黙った。
そして数千年を生きた悪魔公爵は、初めて困ったように笑った。
「……貴殿は、契約を理解していないのではない」
「たぶん」
「そこは否定してほしかった」
彼はゆっくり立ち上がった。
浮かんでいた契約文字が消える。
「ならば契約ではなく、私自身の意思で選ぼう」
再び片膝をつく。
今度は魔法陣も、文字も出なかった。
「湊。我は貴殿に仕える。命じられたからではない。拘束されたからでも、契約したからでもない」
紅い瞳が真っ直ぐ湊を見る。
「我が意志によって、貴殿を我が主と認める」
SYSTEMが激しく明滅した。
【自由意思による深度忠誠を確認】
【SP+480】
【異常値を検出】
【再計算】
【SP+480:確定】
湊は数字を見た。
「多いな」
レナが呆然と呟く。
「感想それ?」
アデルは立ち上がり、服の埃を払った。
「さて、我が主」
「湊でいいよ」
「それは却下する」
「なんで」
「最低限の威厳まで捨てさせないでいただきたい」
その日の夕方。
食堂に新しい椅子が一脚増えた。
そして翌朝、湊が脱ぎっぱなしにしていた靴が、入口に完璧な角度で揃えられていた。
横には小さな紙が置かれている。
『我が主。外交以前に生活習慣の是正が必要と判断いたしました』
「……厳しいな」
「当然でございます」
背後から声がした。
いつの間にか、アデルは完璧な黒い執事服に着替えていた。
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