第15話 一晩だけのはずだった少女が、帰らなくなった
「今日まで」
そう言っていたはずのレナは、三日目の朝も食堂にいた。
四日目には、ミナが当然のようにレナの分まで朝食を作っていた。
五日目には、ピィが勝手にレナの部屋へ入っていた。
「ピィ。そこ私の枕」
「ピィ♪」
「聞いてないでしょ」
「たぶん聞いてる」
湊が言うと、レナは振り返った。
「なら出るように言って」
「嫌がってる?」
「……別に」
「じゃあいいんじゃない?」
「あなた、判断基準がいつも一個足りないのよ。普通は『迷惑かどうか』も考えるの」
何のことかは分からなかった。
食堂へ戻ると、ミナが鍋を混ぜている。
ミナ「レナさん、今日も検証ですか?」
「あと一回だけ」
ミナ「昨日も聞きました」
「昨日とは条件が違うの」
ミナ「はいはい」
「その返事やめて」
会話の端で、ミノタウロスが静かに椅子代わりの石台へ座る。
最近、食堂の風景は少しずつ変わっていた。
最初は湊とピィだけだった。次にミノタウロス。ミナ。そしてレナ。
人数が増えるたび、必要な食器も椅子も増える。
湊はそれを面倒だとは思わなかった。
「また椅子作るか」
その日の午後、外周警戒網が反応した。
ミノタウロスが立ち上がる。レナもすぐ表情を変えた。
「人?」
「複数」
湊の領域表示には四つの反応。全員人間。境界の外で止まっている。
しばらくすると、拡声魔導器を通した声が響いた。
『天城レナを保護している者へ告ぐ』
レナの顔から表情が消えた。
『対象は災害指定能力保持者であり、管理対象資産である。速やかに引き渡せ』
「資産?」
湊が首を傾げる。
レナは立ち上がった。
「私が出る」
「帰りたいの?」
「そうじゃない」
「じゃあなんで?」
「ここを巻き込みたくないから」
レナは淡々と言った。
「私がいなければ、あの人たちは帰る。たぶん」
「たぶんなんだ」
「契約上、私はあの組織の管理対象だから」
湊はレナの手首を見る。薄く残っている契約痕。
ミナが鍋から手を離した。
「それ、本人が嫌でも戻らないといけないんですか?」
レナ「そういう契約だったから」
ミナの顔が硬くなる。自分にも似た記憶があるのだろう。
湊は境界へ向かった。レナもついてくる。
外には四人の探索者がいた。全員、企業所属の装備。
先頭の男が湊を見て一瞬たじろぐ。《魔王》の顔は、もう世界中に知られている。
「天城レナの引き渡しを要求する」
「本人は帰りたいって言ってないけど」
「本人の意思は契約上問題にならない」
湊は少し黙った。
「それ、変じゃない?」
「契約だ」
「契約なら何でもいいの?」
男の顔が険しくなる。
「部外者が口を挟む問題ではない」
レナが一歩前へ出た。
「湊。いい」
「帰りたい?」
「……」
「それだけ聞いてる」
レナは答えなかった。
その沈黙の間に、境界の石壁が小さく軋んだ。【災厄共鳴】が反応している。
それでも誰も傷つかない。湊が改修した安全構造が衝撃を吸収する。
「出たいなら止めない」
湊は言った。
「でも、追い出す理由もないよ」
男が声を荒げる。
「対象を匿えば敵対行為とみなす!」
「匿ってないけど」
「何?」
「本人がここにいるだけだし」
レナがゆっくり湊を見る。
「だから、レナが決めればいい」
誰も話さない。
風もない深層通路で、レナの呼吸だけが聞こえた。
彼女は今までずっと、自分が離れる方を選んできた。
誰かを傷つけないため。誰かを巻き込まないため。自分が消えることで全部を終わらせるため。
でもそれは、本当に自分が望んだ選択だったのか。
レナは企業側を見る。次に、湊を見る。
食堂の方にはミナとピィ。入口にはミノタウロス。
自分の部屋もある。壊れても誰も傷つかない床。内側からしか閉まらない鍵。そして、何日いても「いつ出ていくの」と聞かない人たち。
「……私は」
レナの声が震えた。それでも、最後まで言った。
「ここに残りたい」
【自由意思による所属選択を確認】
【相互信頼の深化を確認】
【SP+120】
湊が目を見開いた。
「多いな」
レナが思わず振り返る。
「そこだけ数値で処理しないで。今の決断、私には結構重かったんだけど」
「いや、前より増えたから」
「分析する順番がおかしいのよ」
「うん。ありがとう」
「……そういう返しも困る」
企業側の男が何か言おうとしたが、その前にミノタウロスが一歩前へ出た。
何もしない。ただ立っただけだった。
四人の探索者が黙る。
湊は彼らへ言った。
「本人が決めたので。今日は帰ってもらっていいですか?」
妙に丁寧だった。その方が逆に怖かったらしい。
彼らはしばらく睨んだあと、撤退した。
追い払ったというより、話が終わったので帰ってもらっただけだった。
夕食。
長机に新しい椅子が一つ増えた。
レナはそこへ座り、少し落ち着かない様子で周囲を見る。
ミナがスープを置く。
ミナ「今日から正式に一人増えましたね」
「正式って何」
ミナ「湊さんが椅子を作ったら正式です」
「そんな制度あるの?」
ミナ「今できました」
「ピィ!」
ピィが賛成する。
レナは呆れた顔で笑った。
湊はその様子を見ながら、SYSTEMのSP表示をもう一度確認していた。
一人増えた。それだけなら、ミナの時と同じような増え方になるはずだ。
なのに違う。ミノタウロスとも違う。
「人数じゃないのか?」
小さく呟く。
答えはまだ分からない。
ただ一つ確かなのは、食堂の席がまた一つ増えたことだった。
その夜、ミナが食堂の隅に置いていた共有端末を見ながら言った。
「そういえば、この場所って外向けの名前がないですよね」
「魔王城じゃないの?」
レナが半分冗談で言う。
湊は即座に首を振った。
「それは嫌だな」
「でしょうね」
ミナが少し考えてから、画面に一語打ち込んだ。
**Sanctuary――避難所、聖域。**
「ここに来た人って、みんな何かから逃げてきたじゃないですか。仮の名前なら、これくらいでいいかなって」
「サンクチュアリ……」
レナが小さく繰り返す。
「大げさじゃない?」
「魔王城よりはいいと思う」
「比較対象を魔王城に置いた時点で議論が壊れてるのよ」
湊は表示された文字を見て、しばらく考えた。
「じゃあ、外向けはそれでいいんじゃない?」
「仮称でも、せめて候補を二つくらい比較しない?」
「仮称だし」
その時、SYSTEMは何も表示しなかった。
ただ、誰も知らないはずのその名前が、ずっと昔から待っていた言葉であることを、今の彼らはまだ知らない。
そして翌朝。
外周を確認していた湊は、床に残る細い足跡を見つけた。
人間の靴ではない。
近くには、乾きかけた血が落ちていた。
「……今度は何が来たんだ?」
少し離れた場所で、獣の耳のような影が一瞬だけ動いた。
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