第12話 朝起きたら、魔王城に食堂ができていた

朝倉湊が目を覚ましたのは、腹が減ったからではなかった。


匂いだった。


焼けた油の香ばしさと、少し焦げた肉の匂い。それに、昨日までこの最深部では嗅いだことのなかった、温かい湯気の気配。


「……飯?」


目を開ける。


隣ではピィがいない。


いつもなら枕元か、湊の胸の上か、ひどい時には顔の横で丸くなっている赤い小鳥が、今朝は姿を消していた。


「ピィ?」


返事はない。


代わりに、生活区画の奥から小さな鳴き声が聞こえた。


「ピィ♪」


やけに機嫌がいい。


湊は起き上がり、寝癖を手で押さえながら簡易厨房へ向かった。


そこで足を止める。


昨日、領域の端で拾った少女が立っていた。


ぼろぼろだった探索服は、湊が渡した予備のシャツとズボンに替わっている。袖も裾も少し大きい。長い髪は邪魔にならないよう後ろでまとめられ、額にはまだ薄く包帯が巻かれていた。


少女は石造りの簡易調理台の前で、昨日採ったキノコと、保存袋の底に残っていた干し肉を焼いていた。


そしてピィは、その横に置いた木箱の上で待機している。


「ピィ」


湊に気づいたピィが鳴いた。


少女も振り返る。


「あ……お、おはようございます」


「おはよう」


湊は鍋を見る。


「何してるの?」


少女の肩がびくりと揺れた。


「す、すみません! 勝手に食材を使いました。残っていた分だけです。あとで必ず働いて返しますから」


「いや、そうじゃなくて」


湊はもう一度鍋を見る。


「料理できるんだなと思って」


少女は数秒、目を瞬いた。


「……はい」


「すごいな」


「え?」


「俺が焼くと、だいたい全部同じ味になるから」


「ピィ」


ピィが妙に深く頷いた。


「お前、そこまで不満だったのか」


「ピィ」


少女の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


昨日は意識を取り戻してからずっと、怯えた顔をしていた。


名前はミナ。


それ以外のことは、ほとんど話していない。


湊も無理に聞かなかった。


手首には探索者企業が使う契約端末が残っていたし、身体には追跡術式の焼け跡があった。何かから逃げてきたことだけは明らかだった。


だが今は、事情より朝飯の方が先だった。


「食べていい?」


「も、もちろんです。そのために作りました」


ミナが慌てて器を差し出す。


昨日まで収納棚に積んでいた金属皿だ。


焼いたキノコの上に、細かく裂いた干し肉が載っている。どちらも大した食材ではないはずなのに、油と塩、それから湊には分からない香草のようなものが加えられていた。


一口食べる。


「うまい」


ミナが固まった。


「……本当ですか?」


「うん」


「こんなの、余り物を焼いただけですよ」


「昨日まで俺、それを別々に焼いて食べてた」


「ピィ」


「だから頷くなって」


ピィは自分用の皿へ嘴を伸ばした。


ミナはまた少し笑った。


その笑顔はすぐ消えたが、昨日よりは明らかに表情が柔らかい。


湊は食べながら、調理台の端に並んでいる食材へ目を向けた。


見覚えのない紫色のキノコが混じっている。


「それ、食えるの?」


「はい。毒がありますけど」


湊の手が止まった。


「毒あるの?」


「処理すれば大丈夫です」


ミナは何でもないことのように紫色のキノコを手に取った。


「傘の裏にある魔素腺だけ取り除いて、塩水に十分ほど浸ければ食べられます。火を通すと少し甘くなります」


「詳しいな」


「私のスキルなので」


そこで初めて、ミナの声が少し小さくなった。


「【魔物調理】っていう……外れスキルですけど」


「外れ?」


「普通の店では使いません。魔物肉とか、毒草とか、迷宮の食材を処理するためのスキルです。危ない食材を扱うから嫌がられるし……探索者企業でも、雑用くらいにしか」


湊は紫色のキノコを見る。


次に、昨日自分が食用かどうか分からず放置した黒い木の実を見る。


さらに収納庫に転がっている、正体不明の根菜らしきものを見る。


「それ全部、食えるか分かる?」


「え?」


「俺、最深部に食べ物いっぱいあるのに、どれが食えるか分からなくて困ってたんだ」


ミナが黙る。


「それ分かるなら、かなり助かる」


「……かなり?」


「うん。食べられるもの増えるじゃん」


あまりにも単純な返事だった。


ミナはしばらく何も言わなかった。


褒められたというより、湊にとっては本当にそれだけなのだと理解するまで時間がかかったらしい。


やがて、小さく俯く。


「変な人ですね」


「よく言われる」


「ピィ」


「お前には言われたくない」


朝食が終わる頃には、問題が一つ増えていた。


ミナが料理できると分かったせいで、今の厨房がひどく使いづらいことも分かってしまったのだ。


調理台は湊が自分一人で使う前提で作ったので低い。


水場は少し離れている。


保存食と工具が同じ棚に入っている。


包丁の横に採掘用ハンマーが置いてある。


ミナはそれを見て、何度か口を開きかけては閉じていた。


湊が聞く。


「使いづらい?」


「い、いえ。使わせてもらえるだけで十分です」


「十分かどうかじゃなくて、使いづらいかどうか」


「……少し」


「じゃあ直そう」


「え?」


湊はSYSTEMを開いた。


【迷宮改変】


淡い線が床と壁を走る。


「調理台、どの高さがいい?」


「ちょ、ちょっと待ってください」


「水はここ?」


「え?」


「棚は?」


「いや、そんな簡単に……」


「簡単ではないけど、SPあるから」


「SP?」


「説明すると長い」


実際にはそこまで長くないのだが、湊自身もまだよく分かっていない。


ミナは戸惑いながらも、恐る恐る希望を口にした。


「……水場は、調理台の横にあった方が」


「うん」


床が動く。


水路が延びる。


「保存する場所は、乾燥した物と冷やす物を分けたいです」


「なるほど」


壁の一部がくぼみ、二つの保存区画へ変わる。


「食器は……できれば、調理器具と別の棚に」


「それはそうだな」


湊は採掘用ハンマーを見た。


「なんで俺、包丁の隣にこれ置いてたんだろ」


「私も聞こうと思ってました」


少しずつ、ミナの言葉が増えていった。


調理台。


洗い場。


保存庫。


食器棚。


作業台。


そして最後に、湊は空いていた区画の中央を指した。


「ここ、何がいる?」


ミナは考える。


「……テーブルがあれば」


「一人用?」


その問いに、ミナが一瞬止まった。


湊も止まる。


今までなら、一人用で十分だった。


ピィは机がなくても勝手に食べる。


ミノタウロスに至っては入口付近で巨大な葉に食事を置けば、それで済んでいた。


だが今は、人間がもう一人いる。


入口を見ると、噂をすれば何とやら、ミノタウロスが巡回から戻ってきた。


大きな角が厨房の入口から覗く。


ミナの身体が強張った。


「……あの」


「昨日いたやつ」


「それは分かります」


「たぶん、住んでる」


「たぶん?」


「本人に確認できてないから」


ミノタウロスが低く鼻を鳴らした。


ミナが半歩下がる。


湊はそれに気づき、巨体へ手を向けた。


「そこまででいいぞ。怖がってるから」


ミノタウロスは止まった。


数秒後、その場へ座る。


ミナが目を見開いた。


「……言うこと、聞くんですか?」


「いや。たまたまじゃない?」


「絶対違うと思います」


「ピィ」


珍しくピィまでミナ側だった。


湊は少し考え、床へ長い線を引いた。


「じゃあ、長いのにするか」


【共同食卓:8SP】


石床が盛り上がり、長机へ変わる。


椅子もいくつか作った。


ミノタウロス用には椅子ではなく、丈夫な石の腰掛けを入口側に置く。


ピィ用には小さな台を机の端へ追加した。


「ピィ!」


一番喜んだのはピィだった。


「お前の席、そこな」


「ピィ♪」


ミナは完成した食堂を見回した。


昨日まで何もなかった石の区画に、厨房があり、棚があり、食卓がある。


豪華ではない。


けれど、人が暮らす場所の形をしていた。


「……私」


ミナが口を開く。


「ここで働かせてください」


湊が振り返る。


「料理もします。掃除もできます。荷物の整理も、魔物素材の解体も。だから……」


声が速くなる。


「だから、置いてください。食事と寝る場所だけでいいです。お金はいりません。契約も、前より厳しくても構いません。私、ちゃんと役に立ちますから」


最後の方は、ほとんど息を継いでいなかった。


湊は黙って聞いた。


ミナの両手が強く握られている。


昨日から何度も見た反応だった。


何かをもらうたびに、返そうとする。


食事を渡せば働くと言う。


寝床を貸せば掃除を始める。


傷を手当てすれば、費用を聞く。


「ミナ」


「はい」


「働かなくても追い出さないぞ」


ミナの顔から表情が消えた。


「……え?」


「まだ怪我してるし」


「でも」


「働きたいならお願いしたい。俺、料理できないし」


「ピィ」


「そこは強く同意するな」


湊は続ける。


「でも、嫌になったらやめていい。ここにいる条件にしなくていいだろ」


「条件じゃ、ない……?」


「うん」


「じゃあ、私は何を払えばいいんですか?」


「別に何も」


「そんなの、おかしいです」


「そう?」


「だって、寝る場所も、食べ物も、安全な場所も……何かを差し出さないともらえないでしょう?」


湊は少しだけ考えた。


ASTRAにいた頃なら、そうだったかもしれない。


役に立つからパーティーに置かれる。


荷物を持つから飯をもらう。


補助をするから攻略報酬の端数をもらう。


そして、役に立たないと判断された瞬間、最深部に置いていかれた。


「俺も、前はそう思ってたかも」


ミナが顔を上げる。


「でも、それで捨てられたからな」


湊は肩をすくめた。


「同じことするの、面倒だし」


ずいぶん軽い言い方だった。


けれどミナは笑わなかった。


目元が少し赤くなる。


「……ずるい言い方しますね」


「そう?」


「そうです」


ミナは目を擦り、それから長机を見る。


「じゃあ……働くことを、ここにいる条件にはしません」


「うん」


「でも、私が作りたいから、ご飯を作ってもいいですか?」


その瞬間だった。


視界の端にSYSTEM通知が開く。


【自由意思による定住を確認】


【相互信頼段階が上昇しました】


【SP+80】


「……八十?」


湊が思わず声を漏らした。


「何がですか?」


「いや。なんでもない」


多い。


ミノタウロスの時より明らかに多い。


人数が一人増えただけでは説明がつかない。


助けた時ではなく、今増えた。


ミナが自分から残ると決めた瞬間に。


「また分からないこと増えたな」


「何の話です?」


「こっちの話」


湊はSYSTEMを閉じた。


今考えても答えは出そうにない。


それより、昼飯だった。


新しい厨房を使って、ミナは紫色のキノコと迷宮ネズミの肉を調理した。


湊は迷宮ネズミと聞いて一瞬だけ箸を止めたが、食べてみると鶏肉に近かった。


「うまいな」


「ちゃんと処理すれば美味しいんですよ」


ミナの声には、朝より少しだけ自信があった。


長机には湊とミナ。


机の端の小さな台にはピィ。


入口側にはミノタウロスが座っている。


ミナは最初こそ巨体を気にしていたが、ミノタウロスが自分の皿――というより大鉢――へ黙々と向かっているのを見て、少しずつ肩の力を抜いた。


「……普通に食べるんですね」


「何を?」


「ミノタウロスです」


「食べるだろ。生きてるんだから」


「そういう意味じゃないです」


「ピィ」


「お前も何が分かったんだ」


ミナが吹き出した。


今度は、すぐには笑顔を消さなかった。


湊はその顔を見てから、長机を見回した。


昨日までは、自分とピィが飯を食うだけの石台だった。


今日は四つの席が埋まっている。


一人。


一人。


一羽。


一頭。


分類として正しいのかは分からない。


「なんか」


湊は何気なく言った。


「食堂っぽくなったね」


ミナは少しだけ目を丸くした。


それから、静かに笑った。


「はい」


その返事は、昨日までの怯えた声とは違っていた。


食後。


保存庫の中身を確認したミナが、現実を突きつけた。


「湊さん」


「ん?」


「食料、明日の朝でなくなります」


「……早くない?」


ミナは入口側を見る。


大鉢を空にしたミノタウロスが座っている。


ピィも見る。


「ピィ?」


最後に湊を見る。


「人数が増えましたから」


「そうだった」


住人が増えれば、食べる量も増える。


当たり前の話だった。


湊は領域図を開く。


未探索区画には、まだいくつも反応がある。


水場。


植生区画。


魔物の群生地。


食べられるものがあるかもしれない。


「じゃあ、探しに行くか」


「私も行きます」


「怪我治ってから」


「でも――」


「ここにいる条件じゃないって、さっき言っただろ」


ミナが言葉に詰まる。


湊は簡単な採取袋を腰へ付けた。


肩へピィが飛び乗る。


入口ではミノタウロスが立ち上がった。


「お前も来るの?」


低い鼻息が返ってくる。


「まあ、好きにして」


湊は領域図の未探索部分を拡大した。


そこに、大きな足跡のような反応が一つ残っている。


以前なら、危険な魔物がいると考えただろう。


今は少し違う。


湊は入口に立つミノタウロスを見た。


「……今度は、何がいるんだろうな」


「ピィ!」


魔王城に食堂ができた翌日。


朝倉湊は、住人たちの次の飯を探すため、再び迷宮の奥へ向かうことになった。

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