第2話 死にかけの俺と、死にかけの小鳥

《奈落》の深層は、静かだった。


静かすぎて、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。


湊は壁に手をつきながら、先ほど聞こえた鳴き声の方へゆっくり進んでいた。右脚には鈍い痛みが残り、肩口の裂傷もまだ完全には止血できていない。ASTRAに残された最低限の装備では、まともな治療など望めなかった。


それでも、あの声を無視して進む気にはなれなかった。


「……こっちか?」


返事の代わりに、また小さな声が聞こえた。


「ピィ……」


通路の角を曲がると、崩れた岩の隙間に小さな影があった。


最初は煤の塊にしか見えなかった。


だが、湊がしゃがみ込んで端末のライトを近づけると、それが一羽の小鳥だと分かった。


手のひらに収まるほど小さい。羽毛は黒と赤が混じったような色だったが、血と煤で本来の色はよく分からない。右の翼は不自然な角度に曲がり、片脚にも傷がある。


呼吸は浅い。


かなり弱っていた。


「お前も、えらい目に遭ったな」


小鳥がゆっくり顔を上げた。


つぶらな黒い瞳が、湊を見る。


敵意はない。


というより、敵意を持つ体力すら残っていないようだった。


「魔物……ではあるのか?」


奈落の深層に普通の鳥がいるはずがない。なら、何らかのダンジョン生物なのだろう。


とはいえ、今にも死にそうな小鳥一羽を警戒しても仕方がない。


湊は腰のポーチから水筒を取り出した。


残量を確認する。


少ない。


地上まで何日かかるのかも分からない以上、節約しなければならない。


「……まあ、一口くらいならいいか」


キャップにほんの少し水を注ぎ、小鳥の嘴の近くへ置く。


最初、小鳥は動かなかった。


湊が指先でキャップを少し近づけると、ようやく嘴を伸ばした。


ぴちゃ。


ぴちゃ。


二口ほど飲んだところで、また力尽きたように頭を伏せる。


「飲めたなら上出来だな」


湊は続けて、自分の救急ポーチを開いた。


包帯もほとんど残っていない。


自分の肩に使う分を考えれば、小鳥に使う余裕などない。


それでも、折れた翼をそのままにしておけば助からないだろう。


「仕方ない」


自分用の包帯を細く裂く。


小さな枝を添え木代わりにし、曲がった翼をできるだけ自然な位置へ戻した。


「痛いぞ。ちょっと我慢しろよ」


「ピィッ……!」


「悪い悪い」


力を入れすぎないよう慎重に固定する。


こうした細かな作業には慣れていた。


ASTRAでは、装備の応急修理も、メンバーの簡易治療も、だいたい湊の仕事だったからだ。


数分後。


小鳥の翼は、とりあえず動かないよう固定できた。


「こんなもんかな」


小鳥はぼんやり湊を見上げている。


湊もその目を見返した。


そして、ふと思った。


「……お前も捨てられたのか?」


もちろん返事があるはずもない。


「ピィ……」


弱々しい鳴き声だけが返ってくる。


「まあ、違うか」


そう言いながらも、湊は少し笑った。


今の自分と似ている気がしただけだ。


役に立たなくなったから置いていかれた自分。


飛べなくなって、こんな深層で一羽になった小鳥。


理由は違っても、状況はたいして変わらない。


「奇遇だな。俺も今日から一人なんだ」


小鳥は首を少し傾けた。


その仕草が妙に人間臭くて、湊はまた笑った。


---


しばらく休んだあと、湊は自分の持ち物を確認した。


水は残りわずか。


携帯食料は干し肉が一枚と、硬い栄養バーが一本。


簡易端末。


ライト。


小型ナイフ。


救急用品少々。


これだけ。


「……いやあ、厳しいな」


口では軽く言ったものの、状況は相当に悪い。


奈落の深層から地上へ戻るには、通常なら数日どころではない。しかも湊は戦闘向きのスキルを持っていない。


途中で魔物に遭遇すれば、それだけで終わる可能性が高い。


それでも、まず食べなければ動けない。


湊は最後の干し肉を取り出した。


硬く乾いた肉を眺める。


そして、隣を見る。


小鳥もこちらを見ていた。


「……見るなよ」


「ピィ」


「これ、俺の最後のまともな飯なんだぞ」


「ピィ」


「分かってないだろ」


小鳥は変わらず湊を見ている。


湊は干し肉を一度口元まで持っていった。


そこで止まった。


少し考える。


ため息をつく。


「……半分ずつな」


干し肉を二つに裂いた。


大きい方を自分が取るつもりだったが、裂け方が微妙だった。


しばらく見比べる。


「まあ、いいか」


少し大きい方を小鳥の前へ置いた。


「食えるか?」


小鳥は最初、匂いを嗅ぐように嘴を近づけた。


それから小さく啄む。


一口。


二口。


さっきより少しだけ動きがある。


「お、食えるじゃないか」


湊も残りを齧った。


硬い。


味も薄い。


ASTRAにいた頃なら、もっとまともな携帯食を持っていた。


もっとも、それを管理していたのは自分だったのだが。


「一人で全部食うのも味気ないしな」


誰に言うでもなく呟く。


本当は、そんな理由ではない。


今にも死にそうなものが目の前にいて、自分だけ食べる気になれなかった。


ただ、それを善意だとか優しさだとか考える習慣が湊にはなかった。


施設にいた頃から、足りないものは分けるものだった。


自分が少し空腹になるくらいなら、たいしたことではない。


それだけだ。


---


夜が来た。


奈落の深層に昼夜などないはずだが、端末の時計が深夜を示していた。


湊は崩れた壁際に身体を預け、簡易シートを肩まで引き上げていた。


寒い。


傷も痛む。


眠気はあるのに、身体が緊張して眠れない。


小鳥は少し離れた場所で丸くなっている。


「明日、動けるかな……」


呟いた声が、暗い通路に吸い込まれる。


返事はない。


当然だ。


こんなとき、ASTRAにいた頃なら誰かの寝息が聞こえていた。


蓮司の大きないびき。


配信担当の寝言。


美月が寝返りを打つ音。


湊はいつも最後に眠り、最初に起きていた。


朝食の準備と装備点検があったからだ。


あれは自分の居場所だったのだろうか。


ふと、そんな考えが浮かんだ。


「……まあ、今さらいいか」


考えても何も変わらない。


美月は「関わらないで」と言った。


自分は「分かった」と答えた。


なら、それで終わりだ。


湊は目を閉じた。


そのとき、胸元に小さな感触があった。


「ん?」


薄目を開ける。


いつの間にか小鳥がこちらまで歩いてきていた。


不自由な翼を庇いながら、湊の服の隙間へ潜り込んでくる。


「おい」


「ピィ……」


小さな身体が胸元に収まった。


驚くほど温かい。


いや、温かいというより熱いくらいだった。


「お前、体温高いな」


小鳥は返事の代わりに、さらに身体を寄せてくる。


寒さが少し和らいだ。


「……俺についてきても、たぶんろくなことないぞ」


「ピィ」


「俺、戦えないし」


「ピィ」


「飯ももうほとんどない」


「ピィ」


「話聞いてる?」


「ピィ♪」


少しだけ鳴き声が元気になっている気がする。


湊は苦笑した。


「まあいいか」


そう言って、小鳥の背中にそっと手を置いた。


羽毛の奥で、ほんの一瞬だけ赤金色の光が揺れた。


だが、疲れていた湊は気づかなかった。


その夜、追放されて初めて。


湊は少しだけ安心して眠った。


---


目を覚ましたとき、最初に感じたのは重さだった。


「……ん?」


右肩が少し重い。


首を傾けると、小鳥が肩の上に乗っていた。


「お前、そこ気に入ったのか?」


「ピィ!」


昨日より声が強い。


翼はまだ固定したままだが、目にも少し力が戻っている。


「逃げなかったんだな」


湊は何気なく言った。


小鳥が頬に嘴を軽く当てる。


つつくというより、触れただけだった。


その瞬間。


視界の中央に、青白い文字が浮かび上がった。


【初めての相互信頼を確認しました】


「……は?」


【Sanctuary適合判定:継続】


【SPを獲得しました】


湊は瞬きをした。


文字は消えない。


「何だ、これ」


ステータス画面を呼び出す。


いつもの項目の下。


これまでずっとゼロだった、意味不明の表示。


【SP:50】


「増えてる……」


昨日までは確かにゼロだった。


レベルアップもしていない。


魔物も倒していない。


そもそも戦ってすらいない。


湊は肩の小鳥を見る。


小鳥も湊を見る。


「……お前?」


「ピィ?」


「いや、まさかな」


すると、さらに新しい画面が開いた。


今まで一度も見たことのない項目だった。


【使用可能SP:50】


その下に、いくつかの文字が並んでいく。


【土木作業:5SP】


【整理整頓:8SP】


【平伏:10SP】


【お友達:15SP】


【お昼寝:20SP】


湊はしばらく黙って画面を眺めた。


それから、ぽつりと言った。


「……ろくなのないな」


肩の小鳥が楽しそうに鳴いた。


「ピィ♪」

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