エピローグ 残された時間
その後――しのぶは、宗次郎との間に授かった新しい命を、無事に産んだ。
元気な男の子だった。
「しのぶ……よく頑張った」
「宗次郎……」
疲れの残るしのぶの手を、宗次郎はしっかりと握っていた。
腕の中では、生まれたばかりの小さな命が、かすかな声を上げている。
「幸せだ。すごく」
「ええ」
二人は顔を見合わせた。
そして、その子に
*
それから、三人の暮らしが始まった。
朝は、充希の泣き声で目を覚ます。
夜は、なかなか眠ってくれない我が子を、二人で交代しながらあやした。
初めて笑った日。
初めて寝返りを打った日。
初めて立ち上がった日。
そして――初めて、自分の足で歩いた日。
「見たか、しのぶ!」
「ええ。今、歩いたわ」
「すごいな、充希!」
たった数歩。
それだけのことが、二人にはたまらなく嬉しかった。
転んで泣けば、しのぶが抱き上げる。
熱を出せば、宗次郎が心配そうに額へ手を当てる。
些細なことで叱る日もあった。
喧嘩をして、互いに口を利かなくなる日もあった。
それでも、翌朝になれば、また同じ食卓を囲んだ。
そんな当たり前の日々が、少しずつ積み重なっていった。
幼かった充希は、いつしか自分の足で学校へ向かうようになった。
帰ってくれば、その日にあったことを一生懸命に話す。
嬉しかったこと。
悔しかったこと。
友達と笑ったこと。
時には、何も言わずに部屋へ籠もる日もあった。
そんなときには、しのぶがそっと待ち。
宗次郎は、不器用ながらも必要なときだけ背中を押した。
そうしているうちに、いつの間にか――。
充希の背は、二人を追い越していた。
「……大きくなったな」
ある日、宗次郎がそう呟いた。
「父さん、今さら?」
充希が苦笑する。
その隣で、しのぶがくすりと笑った。
「ふふ。宗次郎、毎年言っているわよ」
「そうだったか?」
「ええ」
三人で笑った。
そんな日々が、ずっと続いていくような気がしていた。
*
やがて、充希は成人の日を迎えた。
晴れ着姿で立つ息子を見つめながら、宗次郎はしばらく何も言えなかった。
「……立派になったな」
「ありがとう、父さん」
ふと、幼い頃の姿が脳裏に浮かぶ。
まだ一人では歩けなくて。
それでも必死に両手を伸ばして、こちらへ数歩だけ歩いてきた、あの日。
あの小さな身体を受け止めた感触が、今も手のひらに残っているような気がした。
「母さんも、ありがとう」
「ええ」
しのぶは微笑んだ。
その目には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。
長かったような。
短かったような。
そんな年月だった。
けれど――。
その先へ進もうとしたとき、充希の成長は止まった。
祝巫の血には、不老長寿の力がある。
しのぶからその血を受け継いだ充希は、成人した姿のまま、それ以上老いることもない。
そして――。
しのぶと結ばれた宗次郎もまた、同じだった。
それから、長い年月が流れた。
季節が巡る。
街の景色が変わる。
古い建物がなくなり、新しい建物が建つ。
人々の流行も、暮らしも、少しずつ変わっていく。
それでも――。
三人の姿だけは、ほとんど変わらなかった。
*
ある日、宗次郎は退役した特務0課の同期たちと、久しぶりに同窓会をした。
「いや、若いなあ……肌ツヤもいいし、髪もふさふさじゃねえか」
「いや、まあ……」
「まあ元気そうでなりよりだ」
ハイボールを片手に笑う同期は、入隊時、宗次郎と同じ二十六歳だった。
けれど今は――目尻に深い皺が刻まれている。
その顔には、否応なく時間の経過が刻まれていた。
かつての同期たちは、若干の差はあれど、大半が五十代を迎えている。
白髪が増えた者。
身体の衰えを口にする者。
昔のようには無理が利かなくなったと笑う者。
それでも、顔を合わせれば、あの頃のように笑い合えた。
くだらない話をして。
昔の失敗を蒸し返して。
あの頃は若かったな、と笑う。
けれど――。
その席に、もう来られない者もいた。
老いや病によって、この世を去った者さえいる。
「……」
宗次郎は、グラスを傾けながら黙っていた。
目の前にいるのは、確かにあの頃と同じ仲間たちだった。
同じ年に入り。
同じ現場に立ち。
同じように汗を流した。
また明日も会える。
そう、当たり前のように思っていた仲間たち。
けれど、時間は誰に対しても平等だった。
ただ一人――自分を除いて。
「……宗次郎?」
「ん?」
「どうした。ぼーっとして」
「いや……なんでもない」
宗次郎は笑って誤魔化した。
言いようのない、複雑な気持ちだった。
*
帰宅した宗次郎は、しばらく鏡を見ていた。
そこに映っているのは、昔とほとんど変わらない自分の顔。
「……五十一、か」
その数字だけが、妙に現実味を持って胸へ落ちてきた。
自分も、いつかは同じように歳を取っていくものだと思っていた。
白髪になり。
皺が増え。
身体が衰えて。
やがて、仲間たちと同じ場所へ行くのだと。
それが当たり前だと思っていた。
なのに――。
時間だけが、自分を置き去りにしていく。
「……俺だけ、残っちまったな」
誰に言うでもなく、宗次郎は呟いた。
失った者たちの顔が、次々と脳裏に浮かぶ。
あの頃は、誰もが同じように若かった。
くだらないことで笑って。
任務が終われば酒を飲んで。
また明日も会えると、当たり前のように思っていた。
――その「明日」が、もう来ない者もいる。
宗次郎は目を伏せた。
不老長寿。
人間なら、誰もが欲しがるものなのかもしれない。
けれど、自分にとってそれは、祝福という言葉だけでは片づけられなかった。
長く生きられるということは――。
それだけ、見送るものが増えるということなのだから。
「……宗次郎」
静かな声がした。
振り返る。
そこには、昔と変わらないしのぶが立っていた。
金色の瞳も。
長い髪も。
あの頃と、何も変わらない。
「どうしたの?」
「……昔の仲間のこと、考えてた」
「そう……」
しのぶは、それ以上聞かなかった。
ただ、静かに宗次郎の隣へ座る。
そして、そっと手を重ねた。
「……みんな、先に行っちまった」
「ええ」
「俺は、まだここにいる」
「ええ」
宗次郎は、重ねられた手を見つめた。
「なんだか……申し訳ないような気がするんだ」
「どうして?」
「俺だけが、何も変わらないから」
しのぶは黙っていた。
やがて、ゆっくりと宗次郎の手を握る。
「……あなたが生きていることを、誰も責めないわ」
「……そうかな」
「ええ」
しのぶの声は静かだった。
「だから、忘れなくていいのよ」
宗次郎は顔を上げた。
「忘れない?」
「ええ。あなたが覚えている限り、その人たちが生きていた時間は消えないもの」
「……」
宗次郎は、しばらく何も言わなかった。
窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと色を変えている。
やがて宗次郎は、小さく息を吐いた。
「……そうだな」
それでも、寂しさは消えない。
きっと、これからも消えない。
自分だけが歳を取らず、愛する者たちを見送り続けるのかもしれない。
それでも――。
隣には、しのぶがいる。
重ねられた手の温もりだけは、確かだった。
宗次郎はその手を、そっと握り返した。
「……もう少し、ここにいてくれ」
「ええ。ずっといるわ」
暮れゆく空を、二人は並んで見つめていた。
時代が変わっても。
人が生まれ、老い、そして去っていっても。
二人だけは、変わらない姿のまま。
残された時間を――静かに歩いていく。
BORDER 最後の境界守 冬青ゆき @yuki_soyogo
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