幕間 闇に潜む聲
黄色い規制テープの外れた公園は、ひどく静かだった。
昼のうちに現れた女が、何かを解いた。
冷たく凝り固まっていた痛みが、ほんの少しだけ弛む。
喉に引っかかっていた息が、ひとつだけ外へ逃げた。
けれど、すべてが解けたわけではない。
折られた骨の感触。
水のなかでもがいた爪。
灰色の空。
人間の、汚れた笑い声。
それらは消えきらずに残っていた。
だから。
少しだけ、動けた。
*
ここは、あの公園から少し離れた別の街角だった。
錆びたガードレールを、コンビニの白い光が無機質に照らしている。
「おら、邪魔くせぇんだよ!」
夜の静けさを蹴り破るように、振り抜かれた足先がアルミ缶を弾いた。
乾いたアスファルトの上で、こぼれた缶コーヒーが黒い染みになって広がっていく。
「んなとこにあんのが悪ぃんだろうが。ゴミカスがよ!」
男はポケットに手を突っ込み、笑いながら足元の何かを踏みにじっていた。
その仕草だけが、まだ身体にこびりついている。
鼻が曲がりそうなほど、煙草の臭いがきつかった。
――ああ。
こいつだ。
この男だ。
見覚えのある靴。
見覚えのある癖。
見覚えのある匂い。
あの公園で、何度も猫を掴んだ手。
ヤット、ミツケタ。
影が、路地の端から滲み出す。
猫の形でもない。
人の形でもない。
ただ、「最後の瞬間」だけを寄せ集めたような黒い塊だった。
それでも、足音だけは猫に似ている。
爪の先が、アスファルトをやさしく叩いた。
男は、まだ気づかない。
缶を蹴る音と、自分の荒い息遣いしか聞いていなかった。
いつものように、弱い何かに当たる場所を探している。
その足元に、黒い影がまとわりついた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
不意の冷たさに、男がようやく目を落とす。
「……なんだよ、おまえ」
そこに猫はいない。
けれど。
私たちは、確かにいた。
あの時と、同じ角度だった。
それだけで、もう充分だった。
「なっ、なんだ、お前ら……やめろ、やめ――」
悲鳴が、夜気を裂いた。
最初に奪われたのは、声だった。
次に、逃げようとした足。
男の身体が崩れ落ちる。
何かが折れる音がした。
私たちは、知っている。
どうすれば痛むのか。
どこを傷つければ、立てなくなるのか。
どれほどで、声が潰れるのか。
人間に、教わった。
だから、返す。
引き裂く。
噛みつく。
逃げようとするたびに、あの夜の痛みを思い出させる。
笑い声も。
無関心も。
「どうせ猫だから」という、その軽さも。
ひとつずつ。
ひとつずつ。
私たちは返していった。
やがて、男は動かなくなった。
路地には、猫の足跡も、人の足跡も残っていない。
ただ、血の匂いだけが、わずかに濃くなっていた。
私たちは、その匂いを静かに見下ろす。
痛みが、ひとつ減った。
恐怖が、ひとつ減った。
けれど。
それでも世界は、何も知らない顔で夜を流していく。
コンビニのガラス戸が開き、別の人間が外へ出てくる。
スマートフォンの画面を見たまま、路地には目もくれない。
それでいい。
見なくていい。
知らなくていい。
あの女。
砂場の上で静かに手を合わせた、あの
どこかで、少しだけ気づけばいい。
もう私たちに、名はいらない。
形もいらない。
ただ、やられたことをやり返した。
その事実だけを抱いて、影のなかへ沈んでいく。
夜風が吹き抜ける。
どこか遠くで、子どもの笑い声がした。
けれど今度は、それを聞いても胸はざわつかなかった。
もう、痛くも苦しくもない。
すべて、終わったのだ。
夜の公園の砂。
あの静けさを思い出しながら。
私たちは、ゆっくりと闇の底へほどけていった。
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