第1.5章 闇に消む聲


黄色い規制テープの外れた公園は、ひどく静かだった。


昼のうちに現れた女が、なにかを解いた。

冷たく凝り固まっていた痛みが、ほんの少しだけ弛む。

喉に引っかかっていた息が、ひとつだけ外へ逃げた。


けれど、すべてが解けた訳ではない。

折られた骨の感触。

水のなかでもがいた爪。

灰色の空。

人間の汚れた笑い声。

それらは消えきらずに残っていた。


だから、少しだけ動けた。


+


ここは、あの公園から少し離れた別の街角だった。

錆びたガードレールを、コンビニの白い光が無機質に照らしている。


「おら、邪魔くせぇんだよ!」


夜の静けさを蹴り破るように振り抜かれた足先が、アルミ缶を弾いた。

乾いたアスファルトの上で、こぼれた缶コーヒーが黒い染みになって広がっていく。


「んなとこにあんのが悪ぃんだろうが。ゴミカスがよ!」


男はポケットに手を突っ込み、笑いながら足元の何かを踏みにじっていた。

その仕草だけが、まだ身体にこびりついている。

鼻が曲がりそうなほど、煙草の臭いがきつかった。


ああ、こいつだ。

この男だ。


見覚えのある靴。

見覚えのある癖。

見覚えのある匂い。


あの公園で、何度も猫を掴んだ手。


よすがを断たれ、自由に動けるようになった私たちは、その背中をもう一度見つけた。


ヤット ミツケタ。


影が、路地の端から滲み出す。


猫の形でもない。

人の形でもない。

ただ「最後の瞬間」だけを寄せ集めたような、黒い塊だった。


それでも、足音だけは猫に似ている。

爪の先が、アスファルトをやさしく叩いた。


男は、まだ気づかない。

缶を蹴る音と、自分の荒い息遣いしか聞いていなかった。

いつものように、弱い何かに当たる場所を探している。


その足元に、黒い影がまとわりついた。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


不意の冷たさに、男がようやく目を落とす。


「……なんだよ、おまえ」


そこに猫はいない。

けれど、私たちは確かにいた。


あの時と、同じ角度だった。

それだけで、もう充分だった。


「なっ、なんだお前ら……やめろ、やめ――ぎゃああっ」


最初に裂けたのは、声だった。


喉から吐き出しかけた罵声を、見えない爪が引き裂く。

悲鳴は言葉の形を失ったまま、夜気に砕けて散った。


次に裂けたのは、足だった。


逃げようとして踏み出した足首に、無数の歯が食い込む。


膝がありえない向きに折れた。

その奥で、鈍いものが砕ける音がした。


私たちは、知っている。


どうすれば痛むのか。

どこを折れば、立てなくなるのか。

どれほどで、声が潰れるのか。

人間に、教わった。


だから、返す。


引き裂く。

裂け目からこぼれたものを、残さず喰う。


笑い声も。

無関心も。

「どうせ猫だから」という、その軽さも。


骨も、肉も、臓も。

血の一滴まで噛み砕き、夜の底へ引きずり込む。


やがて、男は動かなくなった。

路地には、猫の足跡も、人の足跡も残っていない。

ただ、血の匂いだけが、僅かに濃くなっていた。


私たちは、静かな心でその匂いを見下ろす。

痛みが、ひとつ減った。

恐怖が、ひとつ減った。


それでも世界は、何も知らない顔で夜を流していく。

コンビニのガラス戸が開き、別の人間が外へ出てくる。

スマートフォンの画面を見たまま、路地には目もくれない。


それでいい、と私たちは思う。

見なくていい。

知らなくていい。


あの女。

砂場の上で静かに手を合わせた、あの祝巫はふりだけが、どこかで、少しだけ気づけばいい。


もう私たちに、名はいらない。

形もいらない。

ただ、やられたことをやり返した。

その事実だけを抱いて、影のなかへ沈んでいく。


夜風が吹き抜ける。


どこか遠くで、子供の笑い声がした。

けれど今度は、それを聞いても胸はざわつかなかった。


もう、痛くも苦しくもない。

すべて終わったのだ。


夜の公園の砂の、あの静けさを思い出しながら、

私たちはゆっくりと闇の底へほどけていった。

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