第1章 怨念猫

公園に切断された猫の首が捨てられる。

そんなニュースも、もう誰も長くは驚かない。


だから朝一番の通報で駆けつけた警察官たちは、いつも同じ顔になる。

見慣れた遊具。

砂場。

湿った夏の朝の空気。


その真ん中にあるのは、スーパーの袋からこぼれ落ちた、小さな命の残骸だった。


犯人は、まだ見つかっていない。

監視カメラには、遠くを横切る影が映っていただけだった。

決め手になるものは何ひとつ残っていない。


猫が無惨に殺されたという報道も、数日すれば別の事件に押し流される。

見出しは入れ替わり、話題は積み重なり、やがてそんな出来事があったことすら忘れられていく。


だが、消えたのはニュースだけだった。

そこに残ったものは、まだ誰にも処理されていない。


「憂さ晴らし」で殺された命には、行き場がない。

噛みしめきれなかった痛みも、呑み込めなかった恐怖も、その場に捨て置かれたまま残される。


それが一度ではなく、二度でもなく、幾度も。

ひとつの場所ではなく、幾つもの公園で繰り返される時。


猫たちの最期だけが、黒い墨を流したように重なり合う。

そしてついに、ひとつの貌を持つ。


人間はそれをただの事件と呼ぶけれど、“ソレら”を管理・管轄するしのぶにとっては、もう少し正確な呼び名がある。

怨念猫──引き裂き喰らう者、だ。



現場に着いた頃には、朝の陽はもう公園の隅々まで照らしていた。

黄色い規制テープが、遊具のあいだに力なく張られている。


ブランコ。ベンチ。砂場。

そのあいだの低い植え込みの前で、警官が二人、落ち着かない様子で立っていた。


「おはようございます。境界祭祀管理局の藤真です。通報の件を確認します。遺骸の場所までご案内ください」


藤真しのぶは、園内をひと巡りするように見渡し、それだけで済ませるように会釈した。

余計なことを言わせない気配に急かされるように、警官のひとりが口を開いた。


「藤真さん、すみませんね。朝っぱらから。例の件で、また……」


ブランコ脇のベンチでは、若い警察官が、通報した年配の女につかまったまま動けずにいた。


「おい。境祭局から藤真さんが来たぞ。世間話は後だ。仕事しろ」


先輩警察官の声が、乾いた空気を裂くように飛ぶ。


「……っ、はい。いま行きます!」


先輩警察官に鋭く呼ばれ、若い警察官は顔を引きつらせたまま返事をした。

それでもすぐに年配の女へ向き直り、ぎこちないほどやさしい声をつくる。


「おばあちゃん、連絡ありがとうね。気をつけて帰って」


女は小さく笑って、皺の深い目元をいっそう細めた。


「大変だねえ。まあ、お仕事頑張って」


その気安いひと言に、若い警察官は軽く頭を下げる。

それだけで会話を切り上げるように、足早に先輩の隣へ戻った。


「すみませんねえ。若いのはこれだから」


先輩警察官は、その場の空気を撫でるように苦笑してみせた。


「すみません。自分、配属されてまだ日が浅くて……」


若い警察官は、叱責の余熱を引きずったまま、しどろもどろに頭を下げた。


「いえ、構いません。現場を見せてください」


しのぶの返答は、優しくも冷たくもなく、ただ必要な言葉だけでできていた。

警察官たちはそれ以上を継げず、視線でテープの内側を示す。


しのぶは頷き、靴音を殺して砂場のほうへ歩いた。


示された先には、半透明のビニール袋がひとつ転がっていた。

どこにでもある、スーパーの袋だった。

各地にあるチェーン店のロゴが、薄く擦れたまま印字されている。


口は乱暴にねじられ、固く縛られていた。

そのすぐ傍に、袋から転がり出たものがある。


小さな、猫の頭だった。


毛並みには、まだ鈍い艶が残っている。

片方の耳だけが、いやに不自然な角度で折れていた。


「現場がちょうど防犯カメラの死角でしてね。証拠になるようなものも、犯人らしい影も何ひとつ映ってないんです。人が通ったのは夜中の一時過ぎと三時前くらいなんですが……袋は今朝の巡回まで、誰にも気づかれていなかったみたいで」


警察官の説明を、しのぶは半ば聞き流していた。

生返事をひとつ返し、猫の首からわずかに距離を取った位置へしゃがみ込む。


砂に落ちた血は、もう乾き始めている。


それでも、しのぶの鼻を掠めたのは血の匂いではなかった。

もっと重い。

もっと粘つく。

胸の奥を鈍く引っかくような、かすかなざらつき。

見られた。

そう掠れた声で訴える気配だけが、そこに残っている。


しのぶは目を閉じ、息をひとつ吐いた。


ここだ。


砂場の中央。

切断面からこぼれた血が染み込んだ、その一点にだけ、薄墨のような黒い影がわずかに澱んでいた。


普通の人間には見えない。

だが、祝巫はふりであるしのぶには、それがはっきり見えていた。


それは猫の形などしていない。

声も、姿も、千切れた記憶も感情も、ただ無造作に折り重なった黒い塊だ。


猫たちが最後に見た空。

最後に聞いた、人間の嗤い声。

最後に味わった痛み。

飲み込みきれなかった恐怖。

そして、なぜという、行き場のない問い。


それらすべてが黒い墨のように溶け合い、公園の真ん中に沈んでいた。


「まだ形にはなっていないけれど……怨念猫か」


吐息にまぎれるほどの声だった。

それでも背後で、警官のひとりが僅かに首を傾げる気配がした。


「何か、分かりましたか?」


しのぶは振り返る。

口元にだけ、事務的な笑みを置いた。


「いえ。今のところは、人為的なものとしか」


日常の裏側で、黒い影がわずかに揺れた。

見られた。

それを確かに理解したものの動きだった。


この瞬間から、怨念猫にとってしのぶは感知した側になる。

しのぶにとっては、それもまたいつものことだった。


立ち上がりはしない。

その場でほんの少しだけ姿勢をずらす。

膝の角度を整え、猫の首と砂場の中心が視界の真ん中に重なるよう合わせる。


規制テープの向こうでは、近所の子どもたちが不安と好奇心を綯い交ぜにした顔でこちらを見ていた。

その後ろで、母親らしい女が「見ちゃだめ」と肩を押さえ、無理に視線を逸らさせている。


この公園は、まだ日常の表側にある。

できれば、ここまでは汚したくない。


しのぶは胸ポケットから、細い白布を一本抜き取った。

包帯ほどの幅もないそれは、古い御札を裂いて拵えたような、ひどく乾いた白だった。


ポケットから取り出された白布を見て、警察官が怪訝そうに眉を寄せた。


「それは……?」


「境界用のマーカーです。血痕と一緒に記録しておきます。あとで処理に入る時、目につくようにしておくだけです」


口にしたのは、どこまでも事務的な説明だった。

警官は納得したように頷くと、少し離れた場所で無線に意識を戻す。


その背中を見届けてから、しのぶは白布を指に絡めた。

指先が、ゆっくりと結び目をつくる。

解けないように。

けれど、締めつけすぎないように。


一本の白が、輪になっていく。

環になっていく。


「……ひとまず、ここまでね」


しのぶは結び目を増やすごとに、心の中で数を数える。

ひとつは痛みに。

ひとつは恐怖に。

ひとつは「なぜ」と問う声に。

そうして結び目が三つになった処で、しのぶは布を砂場の上にそっと置いた。

白布は肉眼ではただの細い帯に見えるが、事情を汲み取る然るべき者の目には、そこから淡い光の輪が広がっていくのが見えた。


黒い怨嗟の塊が、僅かにざわめく。


逃げようとしているのではない。

そこに「境界」が引かれたことを、本能的に理解したがための動揺だ。

まだ完全な形になっていない怨念猫は、ここから先へは出られない。

ゆえに、その程度の枷で十分なのだ。


「お祓いとか、そんな感じですかね?」


いつのまにか近づいてきていた若い警官が、恐る恐る尋ねる。

怖いのだろう。彼の視線は、猫の首と白布の間を泳いでいる。


「いいえ」


しのぶは、穏やかに首を振った。


「動けないように、印を付けておくだけです。ここから外に“滲まない”ようにね」


「……にじむ?」


彼は意味が分からない、という顔をしたがそれ以上は踏み込んでこなかった。

というよりも、職務以外の事については関われない規定なのだ。


それでいい、としのぶは思った。

彼らには彼らの日常がある。

世界の裏側の事象を、無理に理解させる必要はない。

しのぶは立ち上がり、スラックスの膝についた砂を軽く払った。


「遺体の回収と、周辺の聞き込みをお願いします。夕方までには、こちらの“後処理”の手配も終わらせますので」


「は、はい。お願いします」


形式的なやり取りを交わしながらも、しのぶの意識は砂場の中央から離れなかった。

白布の輪はゆっくりと沈み込み、やがて地面の内側に溶けていく。


そこに、小さな杭が打ち込まれたような感覚がする。


即席の標であり、仮の鎖──それが本当に危なくなるのは日が暮れてからだ。

怨念は暗さを好む。

それは猫だった頃と、何ひとつ変わらない。


しのぶは、公園の出入り口に向かいながら心の中で予定を組み直した。

一度、拠点に戻って準備が必要だ。必要な道具を揃え、日没後に再訪する。

その時は、裁定者として刃を振るうことになるだろう。

背中にかすかな視線を感じて振り返るが、そこには誰もいない。

砂場の上で、黒い影だけがジッとしのぶを見送っていた。


「……夜まで、大人しくしていてね」


砂場の上に佇む薄墨の影に向かって呟き、しのぶは夏の光の中へと歩み出た。




日没を、しのぶはわざと待った。


オレンジ色の街灯が点きはじめるころには、公園はもう用のない場所になっている。

子どもの声は消え、犬の足音も途絶える。

残るのは、アスファルトに落ちる灯の輪だけだ。


フェンス越しに中を窺う。

規制テープは、もう外されていた。

砂場にはもう、ビニール袋も猫の首もない。


あるのは空白だけだった。


しのぶは公園に入ると、昼と同じ位置に立つ。

砂場の中央。

昼間に白布を置いた、その一点だけ空気が違っていた。


白布は、もう見えない。

だが、地面の内側に沈んだ結び目は、まだかろうじて残っている。

その上で、黒いものが膨らんでいた。


ゆっくりと。

もったりと。

猫の背のように、黒いものが波打つ。


一匹分ではない。

二匹分でもない。

数えるのを諦めるほどの数が、ひとつところに押し込められている。


鳴き声は、ない。

そのほうが、よほど質が悪かった。


怨念と化した猫たちの悲鳴が、耳の奥に響く。

声にならなかった息。

骨の折れる音。

男の、乾いた笑い。


しのぶは強く眉を寄せた。


「……来ているのなら、姿を見せなさい」


右手をひとつ振る。

指先から、細い線が幾筋も走った。

光ではない。

糸でもない。

祝巫だけが扱う、目印だ。


それは昼の簡易結界の上から、さらに一枚、網をかけるようにひろがる。


黒い塊が、逃げ場を失ってぴしゃりと跳ねた。

水面に石を落としたように波紋が走り、そこからゆっくりと形が浮く。


猫に似ている。

だが、歪だ。

耳の数が合わない。

尾は、途中で引き千切れている。


足は三本しかない。

それなのに、踏み跡は四つ、五つと増えていく。


そのすべてが、黒い影だけでできていた。


「……怨念猫」


しのぶが名を呼ぶと、塊がぴくりと揺れた。


見ている。


目はない。

それでも、見られている感覚だけははっきりとあった。


昼に結界を敷いた時点で、しのぶはすでに向こうに感知されている。

だから、いまもここに立っている。


「人間は、本当に愚かな生き物よね。憂さ晴らしで殺されたあなたたちが、どれほどの痛みを味わったかも知らない」


しのぶは、ひとつひとつの情景をなぞるように言葉にした。


「……ごめんね。あなたたちは、大好きな人の膝で撫でられて、ご飯をもらって、可愛がられたかっただけなのに」


黒い影が、ゆらりと揺れる。

頷いたようにも、呻いたようにも見えた。


「人間は、本当に愚かだわ」


しのぶは静かに目を伏せた。


「でも──」


そこで言葉を断ち、右手の指をひとつ折る。

空気がひきつれた。


砂場の四隅に、見えない杭が打ち込まれた。


「人間の日常と、影の領域、その均衡を守るのが、私の役目」


そこで、しのぶはほんのわずかに息を継いだ。


「こちらの勝手な都合にすぎないとしても」


胸の奥で、かすかな痛みが弾ける。

祝巫はふりの一族が滅びた日に嗅いだ血の匂い。

肉の焼ける匂い。

それだけが、一瞬よみがえった。


猫たちの怨念と、自分の過去はどこか似ている。

世界に見捨てられた、その一点で。


「だからせめて、終わり方だけは私が決める」


しのぶは左手を前へ出す。

その指先が、黒い塊の縁に触れた。


────冷たい。


氷ではない。

血の通わない肉に触れたときの、あの冷たさだ。

その感触のまま、しのぶは小さく囁く。


「怨念猫。引き裂き、喰らうもの。あなたたちを引き裂いたのは、たしかに人間の手」


黒い塊の奥で、何かが軋んだ。


「けれど、あなたたちはまだ覚えているでしょう。優しい手の温もりを。大好きな人の声を」


軋みは、わずかに深くなる。


「大事な人のところへお帰りなさい。あなたたちをこの公園に縛るよすがは、ここで切ってあげる」


最後の言葉とともに、しのぶは両手を合わせた。

黒い群体に絡みつく二重の鎖が、一刀のもとに断ち切られる。


その瞬間、黒い塊は初めて声をあげた。


猫とも人ともつかない声だった。

歓喜にも聞こえ、怨嗟にも聞こえる。

だが一瞬だけ、たしかにしのぶの胸を焼いた。


「……次は幸せにね」


黒い塊は、やがて薄墨のように崩れていく。

霧のようにほどけ、夜のなかへ溶けていく。

足跡も、鳴き声も、血の匂いも、すべて夜風に紛れて薄れていった。


最後に残ったのは、足首に寄り添う猫の体温の幻だけだった。


しのぶはそっと手を下ろし、砂場へ向かって一礼する。


「二度と、同じ場所に縛られませんように」


それは祈りというより、願いに近い言葉だった。


遠くで、救急車のサイレンが鳴り始める。

別の場所で、別の「日常」が軋んでいるのだろう。


しのぶは背筋を伸ばし、静かに公園をあとにした。


夜風が髪をかすかに揺らす。

そのなかに、ほんの一瞬だけ、猫の喉鳴りに似た気配が混じった。

振り返った時には、もう何もいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る