BORDER 最後の境界守

冬青ゆき

第1章 怨念猫

最初に見つかったのは、猫の首だけだった。

雨に濡れた路地裏の真ん中で、それは妙に静かだった。


血は、ほとんど残っていない。

ただ、切断面だけが黒く乾いている。


ありふれた虐待事件に見えたのは、そこまでだった。


猫の首を中心に、空気が淀んでいる。


息苦しいほど重いのに、風だけが妙に冷たい。


誰もいない路地の奥から――


濡れた足音が、ひとつ。


また、ひとつ。


怨念は、ときに死を越えて残る。


そして境界を踏み越えた怨念は、狩らなければならない。


それを見つけ、裁き、封じる者。


最後の境界守。

境界祭祀管理局、唯一の討伐執行官――藤真しのぶ。


そして、翌朝。


公園に、切断された猫の首が捨てられる。

そんなニュースにも、もう誰も長くは驚かない。


だから朝一番の通報で駆けつけた警察官たちは、いつも同じ顔をしていた。


見慣れた遊具。

砂場。

湿った夏の朝の空気。


その真ん中にあるのは、スーパーの袋からこぼれ落ちた、小さな命の残骸だった。


犯人は、まだ見つかっていない。


監視カメラに映っていたのは、遠くを横切る人影だけ。決め手になるものは、何ひとつ残されていなかった。


猫が無惨に殺されたという報道も、数日すれば別の事件に押し流される。


見出しは入れ替わり、話題は積み重なり、やがて――そんな出来事があったことすら、人々の記憶から消えていく。


だが、消えるのはニュースだけだ。


そこに残されたものは、まだ誰にも処理されていない。


「憂さ晴らし」で殺された命には、行き場がない。


噛みしめきれなかった痛みも。

呑み込めなかった恐怖も。


その場に捨て置かれたまま、残り続ける。


それが一度ではなく、二度でもなく、幾度も。


ひとつの場所ではなく、いくつもの公園で繰り返されたとき。


猫たちの最期だけが、黒い墨を流したように重なり合う。


そして、ひとつの貌を持つ。


人間は、それをただの事件と呼ぶ。


だが、“ソレら”を管理・管轄する者にとっては、もう少し正確な呼び名があった。


――怨念猫。


引き裂き、喰らう者。


          *


現場に着いた頃には、朝の陽がもう公園の隅々まで照らしていた。


黄色い規制テープが、遊具のあいだに力なく張られている。


ブランコ。

ベンチ。

砂場。


その先の低い植え込みの前に、警察官が二人立っていた。


「おはようございます。境界祭祀管理局の藤真です。通報の件を確認します。遺骸の場所までご案内ください」


藤真しのぶは園内をひと巡りするように見渡し、短く会釈した。


余計な言葉を許さないような気配に急かされるように、警察官のひとりが口を開く。


「藤真さん、すみませんね。朝っぱらから。例の件で、また……」


ブランコ脇のベンチでは、若い警察官が通報した年配の女に捕まったまま動けずにいた。


「おい。境祭局から藤真さんが来たぞ。世間話は後だ。仕事しろ」


先輩警察官の声が、乾いた空気を裂く。


「……っ、はい。いま行きます!」


若い警察官は顔を引きつらせ、それでもすぐに年配の女へ向き直った。


「おばあちゃん、連絡ありがとうね。気をつけて帰って」


「大変だねえ。まあ、お仕事頑張って」


女が笑う。


若い警察官は軽く頭を下げ、足早に先輩の隣へ戻った。


「すみませんねえ。若いのは、これだから」


先輩警察官が苦笑する。


「いえ。構いません」


しのぶの返答は、優しくも冷たくもない。


必要な言葉だけだった。


「現場を見せてください」


警察官はそれ以上を継がず、テープの内側を示した。


しのぶは頷き、砂場へ向かう。


示された先には、半透明のビニール袋がひとつ転がっていた。


どこにでもあるスーパーの袋。


薄く擦れたチェーン店のロゴが、雨に濡れている。


口は乱暴にねじられ、固く縛られていた。


そのすぐ脇に、袋から転がり出たものがある。


小さな、猫の頭だった。


毛並みには、まだ鈍い艶が残っている。


片方の耳だけが、妙に不自然な角度で折れていた。


「現場がちょうど防犯カメラの死角でしてね。証拠になるようなものも、犯人らしい影も何ひとつ映ってないんです」


警察官が説明を続ける。


「人が通ったのは夜中の一時過ぎと三時前くらいなんですが……袋は今朝の巡回まで、誰にも気づかれてなかったみたいで」


「そうですか」


しのぶは生返事をひとつ返し、猫の首からわずかに距離を取った位置にしゃがみ込んだ。


砂に落ちた血は、もう乾き始めている。


それでも。


しのぶの鼻を掠めたのは、血の匂いではなかった。


もっと重い。


もっと粘つく。


胸の奥を鈍く引っかくような、かすかなざらつき。


――見られた。


そんな掠れた声で訴える気配だけが、そこに残っている。


しのぶは目を閉じ、息をひとつ吐いた。


ここだ。


砂場の中央。


切断面から流れた血が染み込んだ、その一点だけに、薄墨のような黒い影が澱んでいる。


普通の人間には見えない。


だが、祝巫(はふり)であるしのぶには、はっきりと見えていた。


それは猫の形などしていない。


声も、姿も、千切れた記憶も感情も、無造作に折り重なった黒い塊。


猫たちが最後に見た空。


最後に聞いた、人間の嗤い声。


最後に味わった痛み。


飲み込みきれなかった恐怖。


そして――なぜ、と問う、行き場のない声。


それらすべてが黒い墨のように溶け合い、公園の真ん中に沈んでいる。


「まだ形にはなっていないけれど……怨念猫か」


吐息に紛れるほどの声だった。


背後で、警察官のひとりが首を傾げる。


「何か、分かりましたか?」


しのぶは振り返り、口元にだけ事務的な笑みを置いた。


「いえ。今のところは、人為的なものとしか」


日常の裏側で、黒い影がわずかに揺れた。


見られた。


それを理解したものの動きだった。


しのぶにとっては、いつものことだ。


立ち上がらず、その場でわずかに姿勢をずらす。


膝の角度を整え、猫の首と砂場の中心が視界の真ん中に重なるようにする。


規制テープの向こうでは、近所の子どもたちが不安と好奇心を綯い交ぜにした顔でこちらを見ていた。


その後ろで、母親らしい女が「見ちゃだめ」と子どもの肩を押さえている。


この公園は、まだ日常の表側にある。


できれば、ここまでは汚したくない。


しのぶは胸ポケットから、細い白布を一本抜き取った。


包帯ほどの幅もない。


古い御札を裂いて拵えたような、ひどく乾いた白だった。


「それは……?」


警察官が怪訝そうに眉を寄せる。


「境界用のマーカーです。血痕と一緒に記録しておきます。あとで処理に入るとき、目につくようにしておくだけです」


事務的な説明に、警察官は納得したように頷いた。


無線へ意識を戻した背中を確認してから、しのぶは白布を指に絡める。


指先が、ゆっくりと結び目をつくった。


解けないように。


けれど、締めつけすぎないように。


一本の白が、輪になる。


環になる。


「……ひとまず、ここまでね」


結び目を増やすたび、しのぶは心の中で数えた。


ひとつは、痛みに。


ひとつは、恐怖に。


ひとつは、「なぜ」と問う声に。


三つ目の結び目を作ったところで、しのぶは白布を砂場の上へそっと置いた。


肉眼には、ただの細い帯にしか見えない。


だが、然るべき者の目には、そこから淡い光の輪が広がっていく。


黒い怨嗟の塊が、わずかにざわめいた。


逃げようとしているのではない。


そこに「境界」が引かれたことを、本能的に理解したためだ。


まだ完全な形になっていない怨念猫なら、この程度の枷で十分だった。


「お祓いとか、そんな感じですかね?」


いつの間にか近くへ来ていた若い警察官が、恐る恐る尋ねる。


視線が、猫の首と白布のあいだを泳いでいた。


「いいえ」


しのぶは穏やかに首を振る。


「動けないように、印を付けておくだけです。ここから外に“滲まない”ように」


「……にじむ?」


意味が分からない、という顔。


それ以上は踏み込まない。


職務以外のことには関われない規定なのだろう。


それでいい、としのぶは思った。


彼らには、彼らの日常がある。


世界の裏側にあるものまで、無理に理解させる必要はない。


しのぶは立ち上がり、スラックスの膝についた砂を軽く払った。


「遺体の回収と、周辺の聞き込みをお願いします。夕方までには、こちらの“後処理”の手配も終わらせますので」


「は、はい。お願いします」


形式的なやり取りを交わしながらも、しのぶの意識は砂場の中央から離れなかった。


白布の輪が、ゆっくりと沈み込んでいく。


やがて、地面の内側へ溶けていった。


そこに、小さな杭が打ち込まれたような感覚が残る。


即席の標。


仮の鎖。


本当に危なくなるのは、日が暮れてからだ。


怨念は暗さを好む。


それは、猫だった頃と何ひとつ変わらない。


しのぶは公園の出入り口へ向かいながら、予定を組み直した。


一度、拠点へ戻る。


必要な道具を揃える。


そして日没後、再訪する。


そのときは――裁定者として刃を振るうことになるだろう。


背中に、幽かな視線を感じた。


しのぶは振り返る。


誰もいない。


砂場の上で、黒い影だけがじっとこちらを見送っていた。


「……夜まで、大人しくしていてね」


薄墨の影へ向かって呟き、しのぶは夏の光の中へ歩み出した。


          *


日没を、しのぶはわざと待った。


オレンジ色の街灯が点きはじめるころには、公園はもう用のない場所になっている。


子どもの声は消え、犬の足音も途絶えていた。


残るのは、アスファルトに落ちる灯の輪だけ。


しのぶはフェンス越しに園内を窺った。


規制テープは、もう外されている。


砂場には、ビニール袋も猫の首もない。


あるのは、空白だけだった。


公園へ入る。


昼と同じ場所に立つ。


砂場の中央。


昼間、白布を置いた、その一点だけ空気が違っていた。


白布は、もう見えない。


だが、地面の内側に沈んだ結び目は、まだかろうじて残っている。


その上で、黒いものが膨らんでいた。


ゆっくりと。


もったりと。


猫の背のように、黒いものが波打つ。


一匹分ではない。


二匹分でもない。


数えることを諦めるほどの数が、ひとつところへ押し込まれている。


鳴き声は、ない。


そのほうが、よほど質が悪かった。


耳の奥で、悲鳴が響く。


声にならなかった息。


骨の折れる音。


男の、乾いた笑い。


しのぶは眉を寄せた。


「……来ているのなら、姿を見せなさい」


右手をひとつ振る。


指先から、細い線が幾筋も走った。


光ではない。


糸でもない。


祝巫だけが扱う、目印。


昼の簡易結界の上から、さらに一枚、網をかけるように広がっていく。


黒い塊が、逃げ場を失ってぴしゃりと跳ねた。


水面に石を落としたように波紋が走る。


その中心から、ゆっくりと形が浮かび上がった。


猫に似ている。


だが、歪だ。


耳の数が合わない。


尾は、途中で引き千切れている。


足は三本しかない。


それなのに、踏み跡は四つ、五つと増えていく。


そのすべてが、黒い影だけでできていた。


「……怨念猫」


しのぶが名を呼ぶと、塊がぴくりと揺れた。


見ている。


目はない。


それでも、見られている感覚だけははっきりとあった。


昼に結界を敷いた時点で、しのぶはすでに向こうに感知されている。


だから、今もここに立っている。


「人間は、本当に愚かな生き物よね」


しのぶは静かに言った。


「憂さ晴らしで殺されたあなたたちが、どれほどの痛みを味わったかも知らない」


黒い塊の奥で、何かが揺れる。


「……ごめんね」


声が、わずかに柔らかくなる。


「あなたたちは、大好きな人の膝で撫でられて、ご飯をもらって、可愛がられたかっただけなのに」


黒い影が、ゆらりと揺れた。


頷いたようにも。


呻いたようにも見えた。


「人間は、本当に愚かだわ」


しのぶは静かに目を伏せる。


「でも――」


そこで言葉を切った。


右手の指を、ひとつ折る。


空気が、ひきつれた。


砂場の四隅に、見えない杭が打ち込まれる。


「人間の日常と、影の領域。その均衡を守るのが、私の役目」


ほんのわずかに息を継ぐ。


「こちらの勝手な都合にすぎないとしても」


胸の奥で、かすかな痛みが弾けた。


――血の匂い。


――肉の焼ける匂い。


祝巫(はふり)の一族が滅びた日に嗅いだ匂いが、一瞬だけ蘇る。


猫たちの怨念と、自分の過去はどこか似ている。


世界に見捨てられた。


ただ、その一点で。


「だから、せめて」


しのぶは左手を前へ出した。


「終わり方だけは、私が決める」


指先が、黒い塊の縁に触れる。


――冷たい。


氷ではない。


血の通わない肉に触れたときの、あの冷たさだった。


その感触を受け止めたまま、しのぶは小さく囁く。


「怨念猫。引き裂き、喰らうもの」


黒い塊の奥で、何かが軋んだ。


「あなたたちを引き裂いたのは、たしかに人間の手」


軋みが、わずかに深くなる。


「けれど、あなたたちはまだ覚えているでしょう」


しのぶは続けた。


「優しい手の温もりを。大好きな人の声を」


黒い影が揺れる。


「大事な人のところへお帰りなさい」


声は静かだった。


「あなたたちをこの公園に縛る縁(よすが)は、ここで切ってあげる」


最後の言葉とともに、しのぶは両手を合わせた。


黒い群体に絡みついていた二重の鎖が――一刀のもとに断ち切られる。


その瞬間。


黒い塊が、初めて声をあげた。


猫とも、人ともつかない声。


歓喜にも聞こえ、怨嗟にも聞こえる。


だが、一瞬だけ。


確かに、しのぶの胸を焼いた。


「……次は、幸せにね」


黒い塊が、薄墨のように崩れていく。


霧のようにほどけ、夜のなかへ溶けていく。


足跡も。


鳴き声も。


血の匂いも。


すべて夜風に紛れて薄れていった。


最後に残ったのは、足首に寄り添う猫の体温の幻だけだった。


しのぶはそっと手を下ろし、砂場へ向かって一礼する。


「二度と、同じ場所に縛られませんように」


それは祈りというより、願いに近い言葉だった。


遠くで、救急車のサイレンが鳴り始める。


別の場所で、別の日常が軋んでいるのだろう。


しのぶは背筋を伸ばし、静かに公園をあとにした。


夜風が、髪をかすかに揺らす。


そのなかに、ほんの一瞬だけ――


猫の喉鳴りに似た気配が混じった。


振り返ったときには、もう何もいなかった。

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