第2章 蠢動
怨念猫の気配が完全に途切れたのを確認してから、しのぶは公園をあとにした。
夜風が、さっきまでの血と鉄の匂いを薄めていく。
街灯の下を三つ、四つと抜けるたび、世界は少しずつ「普通の夜」へ戻っていくように見えた。
けれど、しのぶの足取りは完全には緩まない。
この区画で“仕事”をしたあとに通る、いつもの帰り道だった。
まっすぐ帰途へ戻る道から一本だけ外れた、細い坂道。
そこを登った先に、古い鳥居がある。
夜の闇のなかに、朱色の柱だけがぼんやりと浮かんでいた。
その奥にあるのは、廃社となった稲荷神社。
地図と記録の上では、とうに「無人」の印がついている。
鳥居の足元には、ひびの入ったブロック塀。
参道の石段には落ち葉と砂利が積もり、誰が捨てたのか分からない空き缶まで転がっている。
拝殿の屋根はところどころ色を失い、夜空との境目さえ曖昧になっていた。
しのぶは、いつもなら鳥居を横目に素通りする。
けれど。
今夜は、足が止まった。
空気が、違う。
鳥居という境界を越えて、明らかな穢れがこちら側へ滲み出している。
瘴気まで混じっていた。
空気そのものに、薄い膜が張っている。
頭から透明な布を被せられたように、外界の音がくぐもって聞こえた。
しのぶは目を細める。
「……なにか、いる」
呟いた、その瞬間だった。
廃神社の奥から。
じわり、と。
視線が滲み出した。
古びて乾いた書物のような匂い。
それに混じって、獣の匂いがする。
眠りから頭を擡げたものが、巣穴の入口から外を窺っているような気配。
しのぶは鳥居の前で立ち止まったまま、暗がりを見つめる。
何も見えない。
けれど。
闇の向こうからも、何かがこちらを見ている。
ただの視線ではなかった。
肌を撫でるように、ゆっくりとこちらを探ってくる。
一度。
二度。
まるで、確かめるように。
(……なんだろう)
しのぶは息を殺した。
穢れた土塊のような匂い。
怨嗟の残滓。
それだけではない。
もっと古い。
もっと重い何かが、その奥に沈んでいる。
姿は見えない。
名前も分からない。
それでも、相手がこちらを認識していることだけは分かる。
そして。
向こうもまた、今ここに立っているものが、ただの人間ではないことを知っている。
鳥居を挟んで。
こちらと、あちら。
境界の両側から、視線だけが噛み合っていた。
しのぶはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ首を傾げる。
「今日は、通りすがっただけ」
声は静かだった。
「貴方のことは……また、そのうち」
挨拶とも。
牽制ともつかない言葉。
それ以上は、口にしなかった。
約束にはしたくない。
宣言にもしたくない。
そんな気がした。
廃神社の奥で、何かがわずかに動いた。
木の葉が揺れたわけではない。
風が吹いたわけでもない。
ただ。
そこにいるものが、ほんの少しだけ意識を動かした。
まるで、その言葉を記憶したかのように。
しのぶは鳥居に背を向ける。
砂利を踏む音が、夜気に吸い込まれていった。
坂道を下り始める。
背中に突き刺さるような敵意はない。
追ってくるわけでもない。
呼び止めるわけでもない。
ただ、見ている。
それだけだった。
しのぶは振り返らなかった。
振り返れば、何かが変わる。
そんな気がした。
だから、そのまま歩く。
やがて鳥居が見えなくなる。
それでも背中には、あの視線が残っていた。
長く。
静かに。
まるで、こちらの姿を覚えようとするように。
怨念猫の声が消えた夜。
別の何かが、静かに目を醒ましている。
しのぶはまだ、その正体を知らない。
それが何を望んでいるのかも。
なぜ、自分を見ていたのかも。
ただひとつだけ。
あの廃神社には――
「こちら側」ではない何かがいる。
その予感だけを連れて、しのぶは自分の暮らす「日常」へ戻っていった。
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