第3章 廃稲荷社での邂逅
空座の廃稲荷社からは、ケガレに混じって、得体の知れない何者かの息遣いがかすかに漏れていた。
あの夜、互いの存在を感知して以来、しのぶは折に触れてその周辺を探っている。
空座の廃稲荷社は、もはや社の体を成していなかった。
荒れ果てたその姿は、社というより、闇に口を開けた洞だった。
その奥に潜むものの正体は、まだ知れない。
ただ、そこに淀む気配には、嫉妬も、落胆も、悲しみも、腐ったまま絡みついている。
鼻を衝くのは、汚れきった感情の臭気。
その奥にだけ、異質なものがひとつ残っていた。
嗅ぎ慣れない、香木めいた匂い。
――かつて高位にあった妖の、消え残った残滓か。
今夜で、調査は八度目になる。
いつもそこに淀んでいた気配が、今夜は妙に静かだった。
ケガレに蝕まれ、深く沈むように眠っているのか。
それとも、力を温存したまま息を潜めているだけなのか。
わずかな異変も逃さぬための結界印だ。
あれが動けば、必ず糸が応じる。
そう自分に言い聞かせながら、しのぶはその場をあとにした。
*
ジリリリン。
ジリリリン。
ジリリリリリリリリリ――。
「異変を検知しました」
「対象に動きがあります」
しのぶは跳ね起きた。
眠気は一瞬で吹き飛ぶ。
枕元の端末が、耳を劈くような警告音を震わせていた。
祝巫の糸だ。
空座の廃稲荷社。
沈黙を守っていた結界が、ついに異変を捉えた。
しのぶは端末を掴み、表示を一瞥する。
寝台を降りた。
寝間着の上からトレンチコートを羽織る。
髪を後ろでひとつに束ね、札入れと短刀を腰に差す。
灯りは点けない。
もう、目は完全に醒めていた。
*
廃稲荷の鳥居をくぐるのは、今夜で十度目だった。
坂を上りきるより先に、しのぶは異変を知った。
空気が重い。
湿った布を幾重にも垂らされたように、夜気そのものが鈍く沈んでいる。
肺に入るたび、ケガレが内側から粘りついてくるようだった。
あの廃稲荷社だ。
奥で、何かが息をしている。
しのぶは足を緩めることなく、闇の奥へ踏み込んだ。
拝殿の奥。
かつて神の坐したはずの場所に、別の何かが居着いた形跡がある。
古い香木の匂い。
湿った土の匂い。
そして、遠い大陸の乾いた風を思わせる匂い。
しのぶは拝殿の前で足を止めた。
「……そこにおいでなのでしょう。外つ国から来たお方」
返事の代わりに、闇がかすかに揺れた。
その奥に、金の光がひと筋、走る。
やがてそれは、切れ長の双眸となって暗がりの中に開いた。
長い黒髪が闇の裡からこぼれ落ちる。
肩を伝い、背を覆い、腰のあたりまで流れる漆黒。
その奥から、ひとりの男が姿を現した。
淡い月明かりの下、長身の男はこちらを静かに見据えていた。
身につけているのは、擦り切れたジーンズと色褪せた黒いTシャツだけ。
裸足だというのに、見窄らしさはない。
浅黒い肌と精悍な容貌のせいか、そこにあるのは困窮ではなく異様さだった。
「……
低い声だった。
「いかにも」
しのぶは淡々と答える。
「天狐ともあろうお方が、主のない社の座を勝手に借りて……ずいぶんと堕ちたものね」
男の口元がわずかに上がった。
「ほう。俺を知っておるか」
「知りたくて知っているわけではないわ」
即答だった。
「それより、あなたに纏わりついているものをどうにかしなさい。このままでは、あなた自身がケガレに喰われる」
「ならば、お前がどうにかしてくれ」
「……は?」
あまりに当然のように言われ、しのぶの眉が寄る。
黒い天狐は、悪びれもしない。
「お前は祝巫なのであろう」
「だから何よ」
「ならば、俺を助けるのも役目ではないか」
「随分と都合のいい解釈ね」
しのぶの声が冷える。
「あなた自身が招いたことでしょう」
「そうかもしれぬ」
天狐は肩を竦めた。
「だが、お前なら助けられる」
「……馴れ馴れしいわね」
「名を知らぬからだろう」
「知る必要もないでしょう」
「俺は知りたい」
しのぶは露骨に嫌そうな顔をした。
「勝手にすれば」
「ならば、お前の名を教えてくれ」
「断る」
「つれないのう」
「初対面の妖に名前を聞かれて、素直に答える
黒い天狐は、面白そうに目を細めた。
「なるほど」
「何よ」
「ずいぶん警戒されておる」
「当たり前でしょう」
しのぶは即答した。
「得体の知れない妖が、勝手に人の領域へ居着いているんですもの」
男は怒るでもなく、ただしのぶを眺めていた。
その視線が、しのぶには妙に気に障った。
「何?」
「いや」
男は口元を上げた。
「面白いと思っただけだ」
「……何が」
「お前が」
しのぶの眉間に皺が寄る。
「そういう言い方、嫌いなの」
「そうか」
「覚えておいて」
「覚えておこう」
あっさり返されたことが、逆に調子を狂わせた。
しのぶはそれ以上相手にせず、右手を上げる。
「あなたに纏わりついている穢れだけを断つわ」
「ほう。俺自身には触れぬのか」
「必要ないもの」
「残念だのう」
「……本当に黙っていて」
青白い光が一閃し、天狐の肩から胸元へ絡みついていた澱を切り裂く。
黒い泥のような穢れが、声にならない悲鳴を上げて床へ落ちた。
――みし。
床板が軋む。
天狐の妖気が、一気に澄んだ。
「……際どいわね。大丈夫?」
ぐらり、と男の身体が傾ぐ。
しのぶは反射的に腕を掴んだ。
「おい」
「無理に動かないで」
数秒後。
「……いい気分だ」
天狐はゆっくり顔を上げた。
「お前に触れられると、なおさらな」
しのぶの顔から、すっと表情が消えた。
「離して」
「嫌だと言ったら?」
「斬る」
即答だった。
天狐は目を細めた。
「本気か」
「本気よ」
しのぶが手を離す。
「あなたを助けたのは、あなたに好意があるからではないわ。境界を乱すケガレを処理しただけ」
「分かっておる」
「なら、余計なことを言わないで」
「しかし――」
「言わないで」
今度は、有無を言わせぬ声音だった。
黒い天狐は少し黙った。
けれど、その目から興味が消えたわけではない。
むしろ、しのぶを見る目は先ほどよりも強くなっている。
しのぶが黒狐と向き合っていると、社の奥から声がした。
「しのぶさーん、これヤバイですぅ……」
境界祭祀管理局の穂波だった。
討伐後の現場処理を担当する彼女は、しのぶが結界を解くのを待ちながら、周囲に残った穢れの処理を始めているらしい。
その声を聞きながら、黒狐がしのぶを見る。
「……名は?」
「教えない」
「では、俺から名乗ろう」
「聞いていないわ」
「俺は黒狐」
「……そう」
「お前は?」
「教えないと言ったでしょう」
「ならば、勝手に呼ぶか」
「好きにすれば」
黒狐は、わずかに目を細めた。
「しのぶ」
「…………」
しのぶの眉が跳ねた。
「なぜ知っているの」
「さきほど、結界の中で女がお前をそう呼んでいた」
「盗み聞きまでしていたの」
「聞こえただけだ」
「……最低」
黒狐は、なぜか嬉しそうだった。
「その顔もよい」
「褒めていないでしょう、それ」
「褒めておる」
「あなた、本当に鬱陶しいわね」
「しのぶよ」
「その呼び方をやめて」
「では、何と呼べばよい」
「藤真」
「堅いのう」
「あなたに親しげに呼ばれるほうが嫌なの」
「では、もっと親しくなればよい」
「どうしてそうなるのよ!」
思わず声が大きくなる。
羞恥ではない。
純粋な苛立ちだった。
この男は、人が嫌がっていることをどこまで平然と言えるのだ。
黒狐は、そんな彼女を見て楽しそうに笑う。
「やはり怒るか」
「誰のせいだと思っているの!」
「俺だな」
「分かっているなら黙りなさい!」
「それは難しい」
「……本当に、嫌い」
しのぶは吐き捨てるように言った。
「あなたみたいな男、大嫌いよ」
黒狐は一瞬だけ黙った。
だが、傷ついた様子はない。
「そうか」
「そうよ」
「ならば、仕方あるまい」
しのぶは意外そうに目を瞬いた。
「……分かったの?」
「お前が俺を嫌っていることくらいはな」
「だったら――」
「だが、俺はお前が気になる」
「……は?」
「嫌われている理由が、よく分からぬ」
しのぶは呆れた。
「そこ?」
「そこだ」
「あなた、本当に面倒な男ね」
「よく言われる」
「でしょうね」
しのぶは踵を返した。
「それじゃ、私はこれで」
「待て」
「待たない」
「また来るのか」
「調査が必要なら来るわ。あなたに会いに来るわけではない」
「それでもよい」
「よくない」
「なぜだ」
しのぶは振り返った。
「あなたと関わると、ろくなことにならない気がするからよ」
黒狐は少し考えた。
「俺はお前に害をなさぬ」
「もう十分迷惑しているわ」
「そうか?」
「そうよ」
しのぶはきっぱりと言い切った。
「二度と、私を口説くような真似をしないで」
「それは約束できぬ」
「……!」
「お前が嫌がる理由が分からぬうちは、諦める気にもならぬ」
「あなたね……」
腰の短刀へ手が伸びる。
黒狐は愉快そうに笑った。
「斬るのか?」
「斬らないわよ。あなたを斬ったら、あとで始末書が面倒だから!」
「なるほど」
「何がなるほどよ」
「お前は真面目だ」
「褒めても何も出ないわよ」
「それは残念だ」
しのぶは深いため息をついた。
「……本当に、関わりたくない」
「そうか」
「そうよ」
「それでも、また会うだろう」
「会わない」
「会う」
「会わない」
「では、次に会った時に確かめよう」
「……勝手にすれば」
しのぶは今度こそ踵を返した。
「藤真」
背後から呼ばれる。
足が止まる。
「何?」
「しのぶ、と呼んでもよいだろう」
「駄目」
即答だった。
「絶対に駄目」
「そうか」
黒狐は、なぜか楽しそうだった。
「では、藤真」
「……それならいいわ」
しのぶは鳥居をくぐった。
背後から視線を感じる。
それ以上に、名前を呼ばれたことが妙に気に障った。
――厄介な男。
それが、今夜の結論だった。
*
山を下りながら、しのぶは苛立ちを噛み殺していた。
「……最悪」
思い出すだけで腹が立つ。
人の話を聞かない。
距離感がおかしい。
こちらが嫌がっていることを面白がる。
しかも、妙に図太い。
「二度と関わりたくない……」
そう呟き、しのぶは小さく息を吐いた。
だが、あの妖を完全に放置するわけにもいかない。
廃稲荷社に居着いている以上、境界の管理対象であることに変わりはない。
まして、あれほど濃いケガレをまとっていた。
次に異変があれば、また調査する必要がある。
――それだけだ。
「……仕事よ」
誰に言い訳するでもなく、しのぶは呟いた。
「仕事で行くだけ」
それで十分だった。
一方。
廃稲荷社では、黒狐がひとり、拝殿の奥に座っていた。
「……藤真、か」
先ほどまで自分を睨みつけていた女を思い出す。
自分を恐れない。
媚びない。
こちらが距離を詰めれば、はっきり拒む。
面白い。
それだけだった。
少なくとも今は、それ以上でも、それ以下でもない。
黒狐は小さく笑った。
「また来るだろうな」
もちろん、しのぶ本人はそんなつもりなどない。
ただ。
廃稲荷社に異変があれば、境界守として来る。
それだけのことだった。
夜の闇が、二人の間を静かに隔てていた。
その境界を越えるつもりがあるのは――今のところ、黒狐だけだった。
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