第3章 廃稲荷社での邂逅

空座の廃稲荷社からは、ケガレの気配に混じって得体の知れぬ何者かの息遣いがかすかに感じられた。

互いの存在を感知した最初の接触以来、しのぶは折に触れてその周辺を調べに訪れている。


空座の廃稲荷社――荒廃しきったその様は、もはや社というより闇へ口を開けた洞門に近かった。

その奥に潜む者の正体は、まだ知れない。

ただそこに淀む気配には、嫉妬も落胆も悲しみも……ことごとく腐り落ちたまま絡みついていた。

鼻を衝くのは汚れきった雑多な感情の臭気。

けれどその奥には、異質なものとして嗅ぎ慣れぬ香木のような匂いが残っている。

これは…かつて高い階位にあった妖の、消え残った残滓なのだろうか。


今日で八度目になるが、妙なことにいつもそこに澱んでいた気配がひどく静かだった。

ケガレに身を蝕まれ、これ以上の力の消耗を避けるために今はどこか深くに沈むように眠って妖力を温存しているのだろうか…。


祝巫の糸――廃稲荷社を囲うように張ったその結界印は、僅かな異変をも見逃さぬよう仕掛けてある。

もしあれが動けば、必ず糸が応じるはずだ。

そう思いながら、しのぶはその場を後にした。


ジリリリン!! ジリリリン!! ジリリリリリリリリリ!!


警告が鳴ったのは、それから3日後の夜半である。

沈黙を守っていた祝巫の糸が不意に著しい異変を捉え、耳を劈くような警告音を発した。


+


廃稲荷の鳥居をくぐるのは、今夜で10回目だった。


しのぶは足元の砂利をひとつ踏むたび、靴底越しに返る感触へ意識を研ぎ澄ませる。

ここは寂れてから、ずいぶん久しい。

長く人の通わなくなった参道には、踏まれることを忘れた石の匂いが沈んでいた。


社に灯りはなく、灯籠もみな輪郭ばかりを闇のうちに伏せている。

それでも、この社は完全な空き家にはなりきれていなかった。

拝殿の奥、かつて神の坐したはずの場所に“別のなにか”が居着いた形跡があるのだ。


しかもそれは、一夜や二夜のものではない。

ずいぶん前からそこに棲み、ここを己のものとして馴染んでしまった気配だった。

古い香木の匂い、それに……湿った土塊の匂い。

そして、もうひとつ。

遠い大陸を渡ってきたような、乾いた風の匂い。

しのぶは拝殿の前で足を止め、静かに目を細めた。


「……そこに居るのでしょう、外つ国から来たお方。ここはもう、ケガレに堕ちた貴方が居てはならない場所なのですよ」


返事の代わりに闇が微かに揺れ、影の奥に一筋、金の光が細く走る。

それはやがて切れ長の双眸となって、暗がりを裂くように開いた。

まず、長い黒髪が闇のうちからこぼれ落ちた。

肩を伝い、背を覆い、腰のあたりまで流れくだる絹めいた漆黒。

やがてその奥から、ひとりの男が姿を現す。

淡い月明かりの許、こちらを見据える長身の男がいた。


+


身につけているのは擦り切れたジーンズと、色褪せた黒いTシャツ。

裸足のままでありながら、浅黒い肌と精悍な容貌のせいか見窄らしさよりも異様な気配のほうが色濃かった。

板の間に、指先が音もなく触れる。


「……祝巫はふりか」


低い声だった。

その響きには、この土地の者ではない訛りが微かに混じっている。

金色の双眸が、真っ直ぐにしのぶを射抜いた。


「いかにも。そう呼ばれるのは、ずいぶん久しぶりよ」


しのぶは、僅かに肩を竦める。


「天狐ともあろうお方が、主のない社と座を勝手に借りて…ここでゆるゆる堕ちていくつもりだったのかしら」


そう言いながら、しのぶは鼻先を掠める匂いを改めて確かめた。

天狐の妖力に絡みついているのは腐臭を放ちながら濁り広がる、別のなにかだった。

祀る者を失った社には、願いと怨みとが等しく澱む。

その底に長く身を浸していれば、たとえ善狐であろうとやがて輪郭を失う。

目の前の黒い天狐は、ちょうどその境目に立っていた。


「ほう……見咎めるか」


黒い天狐は、僅かに口の端を吊り上げた。

それは笑みとも、自嘲ともつかぬ表情だった。


「他に貴方が視える存在モノがいないのだから仕方ないでしょう」


しのぶは一歩、前へ出る。

たったそれだけのことだが、拝殿の奥に淀んでいた澱がざわりと鳴った。

次の瞬間、男の周りに黒い煙のようなものが立ちのぼり、遅れて腐臭がひらいた。

それは彼自身に由来するものの他に、この社に置き去りにされた願いと見捨てられた信仰とが、腐りながら放つ匂いだった。

その澱がいま黒い天狐の肩や腕に纒わり付き、輪郭を少しずつ書き換えようとしている。


「……ずいぶん、纏わり付かれているわね」


「空いた椅子は座り心地がいい。国を追われた身には、なおさらだ」


黒い天狐は、どこか遠くを見るような目をした。


「かつての名も位も、すべて妬んだ同族に奪われた。それに…真名を失った者はどこにも帰れない。故にここはちょうどよかった。誰もいないからな」


「だからと云って、ケガレまで抱えこむ理由にはならないわ」


しのぶは絡みつく澱から目を逸らさず、静かに右手を上げた。

天狐の金の眸が、その動きを追う。

祝巫はふりの手は境界を結び、また断ち切るためにある。


「ここで完全に堕ちてしまえば、貴方はもう“ただの怪異”になる。稲荷の代わりでも、仮初の座の主でもなく、人の日常を壊すだけの何かに…」


「そうなる前に、斬ると?」


「ええ。貴方に纏わり付いている穢れだけを、ね」


指先からするりと滑り出る細い線──祝巫はふりの糸は、見えない刃だ。

かつては、世界の綻びを縫い留めるためのもの。

けれど今夜に限っては、その役目を裏返す。

しのぶは黒い天狐の肩口に纒わり付く澱を見据え、ひとつ呼吸を整えた。


「澱を削げば、貴方は自由になる」


黒い天狐は、ふっと目を細めた。


「……信じて、いいのか」


「信じなくていいわ。結果だけ見ていなさい。決して、悪いようにはしないから」


音もなく、なめらかに、一筋の刃がはしった。

冴え冴えと青い刀身を鞘へ収めるのとほとんど同時に、黒い天狐の肩から胸元へ絡みついていた泥のような澱が声にもならぬ悲鳴を引き、床板の隙間へと吸いこまれてゆく。

───みし、と。

そのとき一瞬だけ、床板が軋んだ。

それはまるで、社そのものが長い眠りの底でひとつ寝返りを打ったような…かすかな揺れだった。




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