午前1時過ぎ(短編)

五辻

午前1時過ぎ(短編)

また、この時間だ。


午前一時を過ぎると、隣の部屋から音がする。


今日も、誰かが歩いている。


壁一枚向こうから、ゆっくりと足音が近づいてくる。


僕はベッドの中で目を開けた。


もう慣れたつもりだった。


それでも、この時間になると少しだけ怖い。


隣人の顔を、僕は一度も見たことがない。


引っ越してきてから、三ヶ月になる。


隣の部屋から聞こえてくるのは、いつも普通の生活音だった。


食器を置く音。


椅子を引く音。


水道を使う音。


たまに、何かを床に落とす音。


夜中に聞こえることを除けば、特におかしなところはない。


だから最初は、ただの夜型の人だと思っていた。


ただ、僕が帰宅する時間と入れ違いになるのか、廊下ですれ違ったことは一度もない。


休日も同じだった。


隣のドアが開くところを見たことがない。


それでも、夜になると必ず音がする。


午前一時を過ぎると。


毎晩。


最初に気になったのは、一週間ほど前だった。


その日もベッドに入っていると、隣から足音が聞こえた。


トントン、と小さな音を立てながら、こちらへ近づいてくる。


そして、壁のすぐ向こうで止まった。


コン。


壁を叩く音。


僕は目を開けた。


少し待つ。


コン。


もう一度。


そして、


コン。


三回。


僕はしばらく壁を見つめていた。


何か用があるのだろうか。


そう思ったけれど、夜中にわざわざ壁を叩く理由も分からない。


結局、その日は何もしなかった。


翌日も、その翌日も。


午前一時を過ぎると音がする。


足音が近づいてきて、壁の前で止まる。


そして、三回。


コン。


コン。


コン。


毎晩同じだった。


さすがに気味が悪くなり、管理会社に連絡した。


「隣の部屋って、どんな方が住んでますか?」


電話の向こうで、担当者が少し黙った。


「隣……ですか?」


「はい。夜中に結構音がするので」


また沈黙があった。


「隣は現在、空室です」


意味が分からなかった。


「いや、でも……人が住んでますよ」


「確認しますので、少々お待ちください」


担当者はそう言った。


しばらくして戻ってきた。


「やはり空室ですね。半年ほど前から入居されていません」


僕は笑った。


「そんなはずないですよ」


「どういうことでしょう?」


「毎晩、生活音がします。歩く音も、水道を使う音も」


担当者は何も答えなかった。


翌日、管理会社の人が来た。


隣の部屋を開けてもらった。


中には何もなかった。


家具もない。


カーテンもない。


電気も止まっている。


誰かが生活していた形跡すらなかった。


僕は部屋の中に立ったまま、何も言えなかった。


「念のため、しばらく様子を見てください」


管理会社の人はそう言って帰っていった。


その夜。


午前一時になっても、何も聞こえなかった。


一時十分。


何もない。


一時二十分。


静かなままだ。


僕は少し安心した。


やっぱり、何かの勘違いだったのかもしれない。


そう思いながら眠った。


それから一週間、何も起こらなかった。


隣から音がすることもなかった。


僕は完全に気にしなくなっていた。


そして、八日目の夜。


午前一時を過ぎた。


また、この時間だ。


目を開けた瞬間、


コトン。


音がした。


僕はベッドの中で固まった。


続いて、足音。


ゆっくり。


一歩ずつ。


壁の向こうから近づいてくる。


僕は息を殺した。


足音が止まる。


壁のすぐ向こう。


そして、


コン。


コン。


コン。


三回。


僕はスマートフォンを握った。


もう一度、管理会社に連絡しようと思った。


そのとき、


ズ……


と何かを引きずる音がした。


壁の向こう側で、何か重いものを引きずっている。


ズ……


ズ……


音が少しずつ近づいてくる。


僕は怖くなって、録音アプリを起動した。


音を残しておけば、明日もう一度説明できる。


録音を開始する。


その直後、


「……まだ、そこにいる?」


小さな声が聞こえた。


僕はスマートフォンを握り直した。


今の声は、隣からだった。


けれど、何も答えなかった。


しばらくすると、音は止まった。


そのまま朝になった。


翌朝。


僕は録音を再生した。


最初は何もおかしくなかった。


時計の音。


エアコンの音。


僕が寝返りを打つ音。


午前一時過ぎ。


コトン。


足音。


コン。


コン。


コン。


そして、あの声。


「……まだ、そこにいる?」


僕はそこで再生を止めた。


やっぱり録音されている。


気のせいではなかった。


僕はもう一度、最初から再生した。


今度は最後まで聞く。


声の後には、しばらく無音が続いていた。


そして、


コン。


コン。


コン。


壁を叩く音。


僕は眉をひそめた。


昨夜、僕が壁を叩かれたのは一時過ぎだった。


その後、僕は一度も壁の音を聞いていない。


なのに録音には、五分ほど後の時間に、もう一度壁を叩く音が入っていた。


おかしい。


僕は録音時間を確認した。


そして、最後の数秒で聞こえた声に気づいた。


自分の声だった。


「……何?」


昨夜、僕が言った言葉。


その直後、


別の声が入っていた。


今度は、はっきり聞こえた。


「隣じゃないよ」


僕はイヤホンを外した。


しばらく動けなかった。


部屋の中は静かだった。


隣からも何も聞こえない。


少し安心して、スマートフォンを机の上に置いた。


そのときだった。


コン。


コン。


コン。


僕はゆっくり振り返った。


音がしたのは、


隣の壁ではなかった。


クローゼットだった。


それからすぐ、僕は引っ越した。

引っ越した後も、数ヶ月のあいだ、その部屋は物件情報に掲載されたままだった。

けれど、今はもう載っていない。

きっと、誰かが住んでいるのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

午前1時過ぎ(短編) 五辻 @tjmpgmtp

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画