第7話
レオンが目を覚ましたと聞いたとき、
私はすぐに彼の部屋へ向かった。
外はすっかり暗く、真夜中。
侍女は夜の見回りついでに容体を確認しに行った時、
目が開いたレオンを見た、と言っていた。
その侍女たちは、今、アルベルト殿下達を呼びに行っている。
やがて…私と同じく駆け込んでくるだろう。
私は急ぎ、部屋に向かっていた。
「…っ」
扉の前にたどり着いた時、
苦い記憶が、脳裏を駆け巡る。
扉を開けた時、見えた背中…浮いた足。
あの時の冷えた空気は、…今も背筋に、記憶として残っている。
…。
パンッ
自分の頬を軽く叩いて、喝を入れる。
そして、深呼吸し…扉を開ける。
背中は無かった。浮いた足も無かった。
ただ、カーテンから漏れる月の光、
ティーテーブルに置かれたロウソクが揺らめき、
その影になるように、ベッドに横たわる人影が見えた。
そこには、青白い顔をしているレオンが…
カーテンの隙間から遠くを見つめていた。
「……レオン」
呼びかけると、レオンは目線をこちらに移す。
…生きている。ちゃんと。
それが、ただ嬉しかった…。
それと同時に、…謝らなきゃ、という気持ちが…溢れてきた。
言葉に悩んでいると、レオンが首だけ曲げてこちらを見た。
「……リゼット?」
「…はい。ここにいます。」
「……そう」
それだけ言って、レオンはまた天井を見つめた。
私は後ろ手で、扉を締め、
ベッド脇の椅子に腰かけた。
改めて顔を見る。…やつれて、青白い顔。
それは、先ほど死の淵から蘇ったからではない。
彼を長く蝕んでいた心の病、…うつ病。
そのうつ病が、彼をこのような姿に変えてしまった。
…私が、見ようともしなかった、レオンの病。
「…」
「…」
しばらく、誰も何も言わなかった。
私はここに来るまで…何を話そうか考えていた。
謝らなきゃ。…でも、何を。
あまりにも多すぎて…、私は口が動かなかった。
…今まで「ごめん」と謝り続けていたのは、彼だったのに。
すっかり、立場が逆転しまった。
やがて、レオンが沈黙を破り、口を開いた。
「……僕」
その目は、ずっと天井を見つめていた。
「どうなったの?」
…。
それは、首を吊った後の話だろう。
どういう経緯で彼が助かったのか。
…意を決して、説明する。
「…私が、声をあげて助けを求めました。
その後、宮廷医師の方々が治療してくださいました」
「…宮廷医師」
かみ砕くように、ゆっくりと口にするレオン。
口に溜まった唾を飲み込み、こちらを見る。
私は、続けた。
「はい…。今は、ゆっくり休ませるようにと」
「……休む」
レオンは小さく呟いた。
その目は、何かを訴えるような目だった。
「はい。しばらくは公務も――」
大臣達が引き継ぐ、そう言おうとした時だった。
「そのあとは?」
「……え?」
レオンの目は、怒りに打ち震えていた。
…今まで、見たこともない目だった。
「そのあとは、…どうするの?」
レオンの震える目が、私を見る。
「目が覚めたんだから……働けって言うんじゃないのか」
…っ。
言葉を呑んだ。
もちろん、今は…そんなつもり毛頭もない。
だけど、その言葉は。
その言葉は、私への評価そのものだった。
今まで彼が苦しんでいたのを、何度も部屋の戸を叩き、
明日は働けと迫った、…私への評価だ。
「違います。今は――」
「違わない!」
部屋の中に、レオンの声が響いた。
泣きそうな、震える声だった。
「今までずっとそうだったじゃないか!」
私はもう、何も言葉を返せなかった。
レオンは身体を起こそうとして、苦しそうに顔を歪めた。
それでも、怒りがレオンを突き動かしていた。
レオンは癇癪のように怒鳴る。
「王子なんだからしっかりしてください!
国民が待っている!大臣が待っている!父上が待っている!
あなたは王子なんだから!」
今まで、私が言ったセリフだ。
胸が痛んだ。…これが…私の、罪だ。
「レオン……」
「リゼットだけじゃない…」
レオンは首を横に振った。
「父上も、母上も、…お前は王子なんだと…何度も!」
レオンはベッドの上で膝を抱えて丸くなった。
「僕だって……」
レオンの声が、さらに震えて、泣きそうな声になる。
「僕だって、ちゃんとしようとしたよ……」
膝を抱えて握りしめた拳が、小さく震えていた。
いつの間にか、自分のことを「私」ではなく「僕」と呼んでいる。
…王子なのだから、と矯正されてきた、呼び名。
今、彼は完全に…王子としての仮面を脱いでいた。
広く静かな部屋に彼の声が響く。
「でも、できなかった」
「……」
「身体が動かないんだ。
頭ではやらなきゃいけないって分かってるのに……
何をしても…怒られる気がするんだ」
何をしても、怒られる。
…。やっぱり…。
彼を追い詰めていたのは、…私自身なんだ。
発破をかけるつもりかけた叱責も、
正してくれると思ってかけた叱責も、
彼への、強い負担だった。
私は、王子という肩書しか、見ていなかったんだ。
私の涙が、私の頬を伝った。
レオンの独白は続いた。
「ずっと言ってた……」
「……はい」
「自由になりたいって」
今まで、子供のわがままと揶揄した、
レオンが求めた、自由。
「父上にも言った。リゼットにも言った。何度も言った!」
レオンの声が、また大きくなる。
子供の癇癪のように、それでも、言葉は私の中に入ってきた。
「なのに、誰も聞いてくれなかった!」
握りしめた右拳を布団に叩きつけた。
白い埃が、宙を舞う。
「いつになれば自由になれるのかって聞いたら、
国王になれば好きにできるって!」
苦しそうに息を吸う。
まだまだ、出し切れていないように。
「王子を辞めたいって言ったら、そんなことを言うなって!」
…泣きながら叫んでいた。
叫び終えたレオンは、再び膝に顔を埋めてしまった。
くぐもった声が、膝の隙間から漏れる。
「教えてくれよ、王子ってどうやって辞めるんだよ…」
そして聞こえてきたのは、すすり泣く声。
しばらく泣いた後、レオンはぽつりとつぶやいた。
「…僕は、王子を辞める時さえ、自由に決められないのかよ…。」
私は、何も言えなかった。
私は彼の最期の自由、それすらも奪った。
…自ら命を絶つ自由さえ。
その言葉を否定してはいけないと思った。
今まで私は、彼の言葉を何度も、何度も否定してきたから…。
「なぁ……」
レオンの声が、ひどく小さくなる。
懇願するように、つぶやいた。
「もう、俺を楽にしてくれ」
「……」
「もう……辞めたいんだ」
縋るような、つぶやく声。
彼は何を、辞めたいのか。
…きっと、全てを…。
王子を、公務を。
…誰かに期待されることを。
誰かの責任を、無責任に背負うことも。
…何もかも。
その言葉が、ようやく私の胸に届いていた。
…それはそれは、あまりにも遅すぎた…。
私が彼を王子としか見ていなければ、
彼の言葉…その真の意味を理解することなんて出来なかっただろう。
…今は、違う。
これは、「サボりたい」なんてわがままなんかじゃない。
子供のような、「逃げたい」という言葉ですらない。
ずっと彼が叫び続けていたもの。
私たちが聞き取れなかった…唯一の声。
――レオンが、助けを求める声だった。
「…」
私はベッドの脇に腰を下ろした。
そして、震える彼の手を取った。
レオンがそれに反応し、こちらを見る。
息を吸って、レオンの目を見ながら答える。
「……分かりました」
「……え?」
レオンが目を見開く。
「辞めてもいいんですよ」
「…」
「王子なんて、辞めてもいいんです」
呆気にとられたような顔が、こちらを見ている。
信じられない、というような顔。
レオンは、震える唇をなんとか動かして話す。
「……本当に?」
「はい」
私は、できるだけ穏やかに笑った。
私がするべき事は…こうやって彼を支える事だったのだから。
「今は、何も決めなくていいんです。
国のことは、義父上や大臣達に任せていいんです。
あなたが全部背負わなくていいんです」
レオンは首を横に振る。
その目は、泣きそうになっていた。
「でも……僕がいなくなったら……」
レオンは王子だから。公務があるから。
…辞めたいと言っていたのに、責任感の強さが、優しさが…
また、彼を無理に動かそうとしていた。
「大丈夫です」
念を押すように、優しく。
「なんとか、なります」
そのための、大臣だ。
そのための役割分担なのだから。
「リゼは……?」
少し、緊張が溶けてきたのか、
レオンは顔が赤らんだ顔で聞いてきた。
「私は、ここにいます」
私は握った手に、少しだけ力を込めた。
二度と、離したくない。
「……どうして?」
握った私の手を、力ない指が握り返してくれた。
「…貴方が、王子だからではありません」
「……」
「貴方が、…レオンだからです」
「……っ」
その言葉に、彼の目から涙がこぼれ、
握った私たちの手に落ちた。
暖かい…凍った心が溶けるような涙。
レオンは唇を震わせた。
「……ごめん」
また、ごめん。
…でも、その『ごめん』は…
私が「王子はおいそれと謝るな」、と叱責し
私が受け取るのを拒否してきた、謝罪。
「ごめん、リゼット……」
「……はい」
「僕……ずっと……」
「はい…私こそ…ごめんなさい」
「ごめん……」
何度も繰り返す謝罪。
ようやくそれを、…心から受け止めることができた。
彼は私を、ただ怒る人だと思っていた。
その重い枷が、この部屋へと押し込めてしまった。
私は彼を、ただサボる人だと思っていた。
その勘違いが、彼を一人にしてしまった。
私は、『ごめん』を繰り返す彼の手を…その手を握り続けた。
もう「謝らないで」とは言わなかった。
彼の『ごめん』を、もう蔑ろになんてしたくなかった。
そのひとつひとつに、彼の責任感と優しさが詰まっていたのだから。
「……大丈夫ですよ」
そっと囁く。
自分の目から涙を拭いて、彼を見る。
こんなに痩せてしまって。
こんなにやつれてしまうなんて。
嗚呼、…本当にごめんなさい。
「…ずっと傍にいますから」
そっと耳元で唱え、彼の体を優しく押してやり
レオンの体をふたたびベッドに寝かせる。
抵抗することなく、レオンは横になってくれた。
「…リゼ…」
「はい、ここにいますよ」
「…なんだか、眠いんだ」
泣きやんだ彼の目に、少しだけ…
アルベルト殿下譲りの赤い目が見えた気がした。
「いいですよ、…傍にいますから…、休んでも良いんですよ」
レオンの瞼が、ゆっくりと閉じていく。
私の手を握りしめていた手から、力が抜けていく。
やがて、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
…私は、その手を離さなかった。
私は、王子としてしか、彼を見ていなかった。
…それに応えられる力を、彼は持っていた。
だから忘れていた。
レオンは、王子である前に、一人の人間だった。
目の前で眠るレオンは、出会った頃と同じく
…私が愛したレオンと同じレオンだった。
王子だから、皆に示して欲しい。
王子だから、頑張ってほしい。
王子だから、次期王様だから…。
…。
もう、二度と間違えない。
「おやすみなさい、レオン」
――私の前では、もう王子じゃなくてもいい。
ただのレオンのままで、眠ってください。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「眠ったか」
「…眠りましたわね」
レオンの部屋の外、2人の影が扉を覗いていた。
彼の名はアルベルト、レオンの父親でありアルヴェリア王国の国王。
彼女の名はエレノア、レオンの母親であり、王妃。
レオンが目が覚めたという報せを聞いて飛んできたところ、
リゼット、義娘がレオンの傍で手を取ってともに眠っている所を目撃した。
「邪魔してはならぬか」
「なりませんわね」
2人はお互いを見やり、扉をそっと閉じる。
ある程度のやり取りは見ていた。そして、仲直りする瞬間も見ていた。
おかげで2人の目は、真っ赤に腫れあがっていた。
「…エレノア、ハンカチはあるか」
「…昔から、自分で持っておいてくださいと言ったでしょう」
「すまぬ…」
アルベルトはエレノアからハンカチを借り、目をこすった。
息子は無事、婚約者とも仲直りが出来た。
その瞬間に立ち会えた喜びは…この世の何よりも嬉しかっただろう。
「…我々もレオンに謝らねばならない。
…追い詰めたのは、リゼットだけではないのだから」
涙を拭き終えたアルベルトがつぶやく。
エレノアは、黙って頷いた。
「…朝になれば、また来ましょう」
「…そうだな」
2人はそっと、部屋の前を後にした。
…やがて、新しい朝がやってきて、
窓から差し込んだ光が、ベッドの上の2人を照らした。
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