第10話 二人の想い
都市を抜けると、道は再び緑の中へ続いていた。
かつて幹線道路だった場所には背の高い草が生い茂り、白線もほとんど見えない。
男が先を歩き、その数歩後ろを少女がついてくる。
聞こえるのは、草を踏む音と、遠くの鳥の声だけだった。
「道守。」
不意に呼ばれ、男は足を止めた。
振り返ると、少女が真面目な顔でこちらを見ている。
「誰のことだ。」
「あなたです。」
「俺には名前がある。」
「まだ教えてもらっていません。」
男は少し考えた。
確かに、名乗った覚えはなかった。
神社では長い間、一人だった。
名前を呼ぶ者も、名乗る相手もいなかった。
「お前だって、名乗ってないだろ。」
少女は目を瞬かせる。
「私は巡礼者です。」
「それは役目だ。」
男は再び歩き始める。
「名前じゃない。」
少女はその隣へ並んだ。
「識別番号ならあります。」
「聞きたくない。」
「なぜですか。」
「長そうだからだ。」
少女は少しだけ不満そうに口を閉じた。
数歩進んだところで、男が尋ねる。
「人間だった頃の名前は。」
少女の足が、ほんのわずかに遅れた。
「覚えていません。」
声は平静だった。
だが、その返事だけが周囲の風景から浮いて聞こえた。
「記録にないのか。」
「欠損しています。」
少女は前を向いたまま答える。
「目覚めた時には、家族の顔も、自分の名前も失われていました。」
覚えているのは、病室の白い天井。
母親らしき人の声。
眠りへ落ちる直前に握られた手の温かさ。
しかし、顔も名前も思い出せない。
「それで、ずっと巡礼者と名乗っていたのか。」
「役割があれば、自分が何者なのか迷わずに済みます。」
男は何も答えなかった。
先ほど巫女の映像から告げられた言葉を思い出す。
最後の道守。
自分もまた、名前ではなく役目を与えられたばかりだった。
少女が横目で男を見る。
「あなたは嫌なのですか。」
「何がだ。」
「道守と呼ばれることです。」
男は首の後ろを掻いた。
「嫌ってわけじゃない。」
「では、道守。」
「やっぱり少し嫌だな。」
少女の口元がわずかに緩んだ。
「難しいですね。」
「人間は面倒なんだ。」
「知っています。」
「ずいぶん偉そうだな。」
「百年分の観察記録がありますから。」
男は思わず笑った。
しばらく歩くと、道端に古い自動販売機が立っていた。
表面は錆びつき、商品の見本も色褪せている。
少女が足を止めた。
「これは何ですか。」
「飲み物を売る機械だ。」
「店員はいないのですか。」
「いない。」
「人間は機械から飲み物を買っていたのですね。」
「そうだ。」
少女は自動販売機をしげしげと眺める。
「信頼されていたのですね。」
「何が。」
「機械が。」
男は少し考え、首を傾げた。
「そういうことになるのか?」
「私は、飲み物を売ったことがありません。」
「残念だったな。」
「まだできます。」
少女は自動販売機の隣へ立ち、両手を身体の前で重ねた。
「いらっしゃいませ。冷たい飲料はいかがですか。」
抑揚のない声だった。
男は立ち止まり、少女を見つめる。
「怖いな。」
「接客評価が低いですね。」
「笑った方がいい。」
少女は不自然に口角を上げた。
「いらっしゃいませ。」
「もっと怖くなった。」
少女は頬を膨らませる。
それが演算された表情なのか、それとも自然に出たものなのか、男には分からなかった。
だが、出会った頃よりも人間らしく見えた。
「何が飲みたい。」
男が尋ねる。
「選べるのですか。」
「機械が動けばな。」
男は自動販売機の側面を軽く叩いた。
反応はない。
少女が手を触れると、内部で小さな駆動音がした。
一瞬だけ表示が明滅し、直後に下部の取り出し口から缶が転がり落ちた。
ゴトン。
男と少女は、同時に缶を見下ろした。
「動いたな。」
「賞味期限は百十七年前に切れています。」
「飲むのはやめよう。」
缶の表面には、赤い果実の絵が描かれていた。
少女はそれを大切そうに拾い上げる。
「持っていってもいいですか。」
「そんなものを?」
「初めて買った飲み物です。」
「買ってはいないだろ。」
「細かいですね。」
少女は缶を荷物へしまった。
男はその様子を見て、小さく笑った。
「お前は、旅が終わったらどうする。」
少女の動きが止まった。
「考えていません。」
「巡礼が役目なんだろ。」
「はい。」
「それが終われば、役目もなくなる。」
少女はしばらく黙って歩いた。
風が草原を渡り、白い髪を揺らす。
「以前は、それでいいと思っていました。」
「以前は?」
「巡礼を終えれば、私も停止すればいいと。」
男は足を止めた。
少女は数歩先へ進み、振り返る。
その表情に悲しみはなかった。
決められた予定を説明するような、静かな顔だった。
「それは死ぬってことか。」
「機能を停止するだけです。」
「同じだ。」
「違います。」
少女は即座に答えた。
「私は生命ではありません。」
男は少女の前まで歩き、その額を指で軽く弾いた。
「痛いです。」
「なら、生きてる。」
「判断基準が乱暴です。」
「俺は難しいことは分からん。」
男は再び歩き始める。
「でも、終わった後のことを考えられるなら、まだ終わる時じゃない。」
少女は額を押さえながら、その背中を見つめた。
「あなたは、旅が終わったらどうするのですか。」
今度は男が黙る番だった。
山の神社へ帰る。
境内を掃く。
鈴を直し、屋根を補修し、誰も来ない参道を守る。
少し前までなら、迷わずそう答えていた。
だが今は、その光景の中に少女の姿がないことが、妙に不自然に感じられた。
「神社へ帰る。」
男は答えた。
「また一人で?」
「お前が来てもいい。」
口にしてから、少し早かったと思った。
少女が目を丸くする。
男は前を向いたまま続ける。
「参拝者がいないと、神社も退屈するからな。」
少女はしばらく何も言わなかった。
やがて、隣へ並ぶ。
「私は人工人格です。」
「ああ。」
「神社へ住むには、正式な許可が必要ですか。」
「いらん。」
「毎日、お茶は出ますか。」
「薪割りを手伝えばな。」
「熊が出た場合は?」
「お前が何とかしろ。」
「先ほど、実物は怖いと言っていました。」
「だから任せる。」
少女は少し考えたあと、静かに笑った。
「検討しておきます。」
「偉そうだな。」
二人は歩き続ける。
朽ちた道路の先には、まだ見ぬ巡礼地がある。
旅がどこまで続くのか。
最後に何が待っているのか。
二人とも知らない。
それでも、先ほどまでより足取りは少し軽かった。
役目が終わった先にも、帰る場所があるかもしれない。
そんな小さな可能性を、二人はまだ言葉にしなかった。
ただ同じ速さで、同じ道を歩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます