第9話 人々の行方
鳥居は、摩天楼の谷間に埋もれていた。
両脇には空を覆うほどの高層建築が立ち並び、その足元で、小さな神社だけが時代から取り残されている。
石造りの鳥居には蔦が絡み、参道には砕けたガラスが降り積もっていた。
それでも拝殿は残っていた。
屋根の一部は崩れていたが、扉は閉ざされ、細い注連縄も辛うじて原形を保っている。
男は参道へ落ちた瓦礫を拾い、脇へ退けた。
一つ。
また一つ。
少女も隣にしゃがみ込む。
「何をしているのですか。」
「参道を空けてる。」
「先に内部を調べた方が効率的です。」
「神様の前を土足で荒らしたままにはできん。」
「私たちは靴を履いています。」
「そういう意味じゃない。」
少女はしばらく男を見つめたあと、黙って瓦礫を拾い始めた。
二人で通れるだけの道を作り、拝殿の前へ立つ。
男は鈴のない鈴緒を握り、二度頭を下げた。
二度、手を打つ。
乾いた音が、無人の都市へ響いた。
少女も隣で同じ所作をする。
祈りを終えた瞬間、拝殿の奥で何かが動いた。
低い駆動音。
床下を青白い光が走り、朽ちた柱の表面に幾何学模様が浮かび上がる。
「これは……。」
少女の瞳に細かな文字列が流れた。
「旧地球保存網が起動しています。」
「保存網?」
返事の代わりに、祭壇の奥から一筋の光が立ち上った。
光は空中で広がり、一人の女性の姿を形作る。
白い装束。
長い黒髪。
巫女の姿をした立体映像だった。
その顔の半分はノイズに崩れ、声もところどころ途切れている。
『参拝者を……確認。』
男と少女は顔を見合わせた。
『生体認証、一名。人工……人格認証、一名。』
映像の巫女は、男へ顔を向ける。
『回帰者の末裔を確認しました。』
少女が男を見る。
「回帰者?」
男は答えなかった。
巫女の映像が、静かに両手を重ねる。
都市の上空に巨大な映像が広がった。
光に包まれた宇宙都市。
無数の船。
肉体を捨て、情報となって移送される人々。
『西暦二千年代末期、人類は地上からの移住を開始しました。』
映像の中で、人々は眠るように装置へ横たわっていた。
身体から抜き出された記憶と人格が、青い光となって空へ昇っていく。
『老化、病、飢餓、肉体的制約。人類は、それらからの解放を選択しました。』
光の中で、人々は笑っていた。
若いまま。
美しいまま。
永遠に変わらない姿で。
少女は自分の手を見つめる。
広告塔で見た映像と同じだった。
永遠の人生。
肉体からの解放。
それを求めて、人々は地球を離れた。
『しかし、すべての人類が同意したわけではありません。』
映像が切り替わる。
荒れた大地へ降り立つ、少数の人々。
宇宙から地球へ戻る船。
土を耕す者。
森を育てる者。
壊れた寺や神社を修復する者。
『有限の肉体を選び、地上へ帰還した者たち。彼らは自らを、回帰者と呼びました。』
少女が小さく息を呑む。
「あなたも……。」
男は、映像の中の人々を見つめた。
「俺の一族は回帰者だ。」
「なぜ教えてくれなかったのですか。」
「隠していたわけじゃない。」
男は祭壇へ視線を移す。
「俺にとっては、特別な名前じゃなかった。」
山で暮らす。
土に触れる。
季節の中で老い、やがて死ぬ。
それは彼にとって思想ではなく、ただの日常だった。
「回帰者は、永遠を拒んだのですか。」
少女の問いに、男は首を横に振る。
「拒んだんじゃない。」
しばらく考え、言葉を続ける。
「終わることを選んだんだ。」
少女は自分の胸へ手を当てた。
人工の心臓が、正確な間隔で動き続けている。
一秒も狂わず。
疲れもせず。
止まる予定もない。
「どうして……。」
声がかすかに揺れた。
「どうして、わざわざ死ぬ身体へ戻ったのですか。」
男は崩れた屋根の隙間を見上げた。
そこから伸びた若木が、陽光を求めて枝を広げている。
「生きたかったからじゃないか。」
「死ぬのに?」
「ああ。」
男は少女を見る。
「死なないことと、生きることは、同じじゃない。」
少女は何も答えなかった。
巫女の映像が再び話し始める。
『回帰者には、一つの使命が託されました。』
空中に日本列島が浮かび上がる。
無数の光が、各地の神社や寺院を結んでいた。
その光は、人間の神経網のように列島全体へ広がっている。
『祈りの記録を保全し、地上と人類の記憶を接続し続けること。』
少女が映像を解析する。
「この神社も、保存装置の一部……。」
『祈りとは、願望ではありません。』
巫女の声が一瞬だけ明瞭になる。
『人類が何を恐れ、何を愛し、何を失い、それでも何を未来へ託したのか。その記録です。』
映像の中で、一つ一つの光が消えていく。
北海道。
東北。
関東。
中部。
近畿。
中国。
四国。
九州。
長い年月の中で、保存網は少しずつ沈黙していった。
最後に残ったのは、山中にある小さな光だけだった。
男が守ってきた神社。
『最終管理者へ。』
巫女の映像が男を見つめる。
『待機期間は終了しました。』
「待機……?」
男の胸に、父から聞かされた言葉が蘇った。
神社を離れるな。
火を絶やすな。
誰も来なくても、鳥居を守れ。
いつか、遠い場所から参拝者が来る。
その者を、決して一人で歩かせてはならない。
幼い頃は、古い言い伝えだと思っていた。
父も。
祖父も。
さらに前の先祖たちも、意味を知らないまま守り続けてきたのだろう。
ただ約束だけを受け継いで。
巫女の姿が乱れる。
『最後の巡礼者を、第一封印地点へ導いてください。』
男は少女を見る。
少女もまた、彼を見つめていた。
「私が、最後の巡礼者。」
「ああ。」
「では、あなたは?」
映像の巫女が、消えかけた声で答えた。
『回帰者の使命は、巡礼者を導き、失われた七つの経典を人類の記憶へ還すこと。』
一瞬の光とともに、日本列島の上へ一本の道が現れる。
七つの光を結ぶ、細い巡礼路。
その最初の光は、都市のさらに東で点滅していた。
『最後の道守よ。』
その呼びかけに、男の表情がわずかに強張る。
『人類が自ら捨てたものを、見届けてください。』
巫女の映像は深く一礼した。
そして、光の粒となって消えた。
拝殿に静けさが戻る。
床を走っていた光も消え、そこには朽ちた神社だけが残された。
少女は、祭壇の前に立ったまま口を開く。
「あなたは、私を待っていたのですね。」
男は首を横に振る。
「知らなかった。」
「それでも、神社を守り続けた。」
「ほかに、できることがなかっただけだ。」
「百年以上も?」
少女の問いに、男は苦笑する。
「俺一人じゃない。何代もかけてだ。」
少女は目を伏せる。
彼の一族は、来るかどうかも分からない誰かのために、有限の命をつないできた。
永遠を持たない者たちが。
永遠に近い約束を守ってきた。
「私は……。」
少女は胸の前で手を握る。
「一人でも巡礼できると思っていました。」
「そうか。」
「でも、記録はあなたを必要としている。」
男は背負い袋を担ぎ直した。
「記録だけじゃない。」
少女が顔を上げる。
「旅は、一人より二人の方がいい。」
それだけ言うと、男は拝殿に一礼し、来た道を戻り始めた。
少女は少し遅れて、その背中を追う。
参道の先には摩天楼が立ち並んでいる。
かつて何百万もの人々が暮らし、やがて永遠を求めて空へ去った都市。
その中心を、有限の命を選んだ男と、永遠を与えられた少女が並んで歩いていく。
人々は、どこへ行ったのか。
答えは空にあった。
けれど、人々が何を置き去りにしたのか。
その答えは、これから二人が歩く地上に残されていた。
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