第5話 鳥居をくぐる日

鳥居の前で、男は立ち止まった。

朱色はとうの昔に色褪せ、柱には幾筋もの傷が刻まれている。

その一本一本に、自分の人生が染み込んでいるようだった。

二十年前。

この鳥居をくぐった時、自分は逃げるように山を下りた。

神社も。

先祖も。

祈りも。

何もかも置き去りにして。

未来だけを信じていた。

そして三十になり、帰ってきた。

今では、この鳥居は「外へ出る門」ではない。

長い放浪の果てに見つけた、帰る場所だった。

男は左手を伸ばす。

柱の傷へ、そっと触れる。

ひんやりとした木の感触が掌に伝わる。

「少し留守にする。」

その声は小さかった。

返事はない。

だが、長年この神社を守り続けてきた者には分かる。

沈黙にも、言葉があることを。

少女は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。

「神社に話しかけるんですね。」

男は照れくさそうに笑う。

「古い付き合いだからな。」

少女は鳥居を見上げる。

「私の記録では、鳥居は『神域との境界』とあります。」

「間違っちゃいない。」

男は頷く。

「でも、俺にとっては少し違う。」

少女が視線を向ける。

「ここは、帰ってくるための門だ。」

その言葉を聞き、少女は静かに目を閉じた。

「……素敵な解釈ですね。」

男は首を横に振る。

「解釈じゃない。」

鳥居を見つめる。

「ここがあったから、俺は帰ってこられた。」

山を下りた日も。

軌道都市で生きる意味を見失った日も。

帰る場所だけは、ずっと変わらずここにあった。

だから生きてこられた。

少女は鳥居の柱へ手を添える。

「人は建物へ帰るのではなく、思い出へ帰る。」

男は少し驚いた。

「誰の言葉だ。」

「分かりません。」

少女は首をかしげる。

「私の記憶の中にありました。」

男は微笑む。

「いい言葉だ。」

二人は並んで鳥居の前に立つ。

境内には朝の光が満ちている。

風に揺れる木々。

鳥のさえずり。

鈴の音。

そのすべてを胸に刻むように、男はゆっくりと振り返った。

「守るだけじゃ、足りなかったんだな。」

少女は黙って耳を傾ける。

「神社は待つ場所だと思っていた。」

男は笑う。

「でも、本当に守るっていうのは……必要なら外へ出ることなのかもしれない。」

守ることと、動くこと。

相反すると思っていた二つが、ようやく一つにつながった気がした。

男は鳥居へ向き直る。

もう迷いはない。

一歩、踏み出す。

少女もその隣に並ぶ。

二人が鳥居をくぐった、その瞬間。

カラン……

鈴が高く澄んだ音を響かせた。

風は吹いていなかった。

男は振り返らない。

神社がそこにあることを、もう知っているからだ。

帰る場所は、失われない。

だから安心して前へ進める。

こうして、神社を守る男は、

世界を巡る巡礼者となった。

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