第4話 失われた経典

朝霧が境内をゆっくりと流れていた。

男は本殿の前に座り、空になった木箱を見つめていた。

代々、この神社で守られてきた経典。

紙ではない。

金属でもない。

木簡でもない。

何でできているのか、誰にも分からない。

ただ一つ確かなことは、この神社が建てられるよりも遥か昔から存在していたということだけだった。

少女は静かに男の隣へ腰を下ろす。

「まだ見つかりませんか。」

男は首を横に振った。

「この箱から経典がなくなるなんて、考えたこともなかった。」

少女は木箱をそっと撫でる。

指先が触れた瞬間、箱の表面に淡い光が走った。

男は思わず目を見開く。

「今のは……。」

「認証です。」

少女は穏やかに答えた。

「この箱は、生きています。」

男は苦笑した。

「神社に長くいると、木にも魂が宿るとは思っていたが。」

「魂ではありません。」

少女は首を振る。

「記憶です。」

その言葉に、男は黙り込んだ。

少女は箱の内側を見つめながら続ける。

「この箱は、経典を守るための器ではありません。」

「違うのか。」

「経典が帰る場所なんです。」

男は眉をひそめた。

「帰る場所?」

「はい。」

少女は空を見上げる。

朝日が鳥居を照らし始めていた。

「経典は盗まれたわけではありません。」

「じゃあ、どうして消えた。」

少女は少しだけ微笑む。

「歩き始めたんです。」

風が吹く。

境内の木々がざわめいた。

男は思わず笑う。

「本が歩くのか。」

「ええ。」

少女は真顔だった。

「正しくは、自らの意志で持ち主を選びます。」

男の笑みが消える。

「昔から、この経典は世界が大きく変わる時だけ姿を消します。」

「それを知っているのか。」

「記録に残っています。」

少女は胸元から小さな金属板を取り出した。

薄い板の表面に青白い文字が浮かび上がる。

『第九回巡礼、開始。』

男はその文字を見つめた。

「第九回……。」

「人類はこれまで何度も文明を築きました。」

少女の声は静かだった。

「そのたびに世界は終わり、そのたびに巡礼者が経典を集めました。」

男は息をのむ。

「つまり……。」

「あなたは九人目ではありません。」

少女は優しく笑った。

「でも。」

そこで言葉を区切る。

「最後の巡礼者には、あなたしかなれません。」

男は本殿を振り返る。

毎日掃除をしてきた床。

磨き続けた柱。

誰も来ない賽銭箱。

ずっと守ってきた神社。

そのすべてが、旅立ちを静かに後押ししているように感じられた。

「経典は全部でいくつある。」

少女は少し考え、小さく答える。

「七つ。」

「そんなに。」

「七つが一つになった時。」

少女は鳥居の向こうを見つめる。

「人類は、自分たちが何を失ったのかを思い出します。」

境内に沈黙が流れた。

男はゆっくりと立ち上がる。

本殿へ向かい、一礼する。

鳥居へ向かい、もう一度深く頭を下げた。

「少し留守にする。」

返事はない。

それでも、朝風が鈴を鳴らした。

まるで、「行ってこい」と送り出すように。

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