第2章 うそつきと秘密のビー玉(二)

 「やめてくださいってばっ、そういうホラーっぽい言い方……!」


 櫻子の声も空しく、咲良は布団の中でぎゅっと目を閉じていた。


 何も見たくない。何も聞きたくない。そんなふうに、身体をまるめている。


 「咲良ちゃん……」


 櫻子は、そっとその名を呼ぶ。


 「もう、『だいじょうぶ』って言わなくていいんだよ」


 けれど、返事はなかった。


 ただ、小さな手が、シーツをぎゅっと握りしめているのが見えた。


 張りつめた静けさの中、母親が戸口に立ちすくんでいた。すぐ目の前にいるのに、何も言えない。


 声をかけることも、近づくこともできず、その場でそっと、引き戸をしめた。


 カチリ。


 ドアが閉まる音が、部屋に深く響いた。


 櫻子は、ため息のように小さくつぶやく。


 「……このままだと、本当に、心が……」


 「閉じきる」


 センの言葉が、それを肯定するように、淡々と続いた。


 「嘘玉が十個そろえば、迷信では『井戸がひとつ吹き飛ぶ』らしいですからな」


 「だから怖いこと言うのやめてくださいってばぁ!」


 櫻子の抗議に、ふとゲン爺がぽつりとつぶやいた。


 「……わしらの芸じゃ、もう届かんかのう」


 「そんなこと……ありません」


 櫻子は、静かに言い返した。


 「咲良ちゃん、さっき……肩、ふるえました。ほんのちょっとだけど、ちゃんと――」


 その先の言葉を飲み込み、彼女は目を伏せる。


 「もう、行きましょう」


 三沢おばけ社の面々は、ゆっくりとその部屋をあとにした。


 残された咲良は、布団の中で、誰にも届かない声を、心の奥に沈めていった。



 その夜、咲良は眠れなかった。


 布団にもぐりながら、心の奥で、ずっとあの音がしていた。


 カチ……カチ……。


 どこかで、ガラス玉が、すべるように転がる音。


 (……あの玉、まだ残ってるのかな)


 ふと、布団のすきまからのぞくと、床の上には、いくつもの嘘玉が光っていた。


 ――全部、私が落としたもの。


 (ほんとうは、給食のニンジン、いまでも苦手)


 (ほんとうは、休み時間いつもひとり)


 (ほんとうは、宿題の漢字、ぜんぜんやってない)


 その「ほんとう」が、胸の中でぽつぽつと生まれては、やがて、喉を通って、落ちていく。


 ぽとん。


 またひとつ、嘘玉が転がる音がした。


 ころん……。


 冷たい音が、部屋じゅうに響く。


 (こんなこと、言ったら――お母さんに嫌われちゃう)


 (困らせちゃう。がっかりさせちゃう)


 だから、笑った。


 だから、「ちゃんとやってる」って言った。


 でも、嘘をつくたびに、自分がすこしずつ、透明になっていくような気がした。


 咲良は、胸の奥をぎゅっと抱えこむ。


 (……誰か、気づいてくれてるのかな。ほんとうの私に)


 ふと、あの時の騒ぎを思い出す。


 皿を数える変なおじいちゃん。番傘を振り回す怪談芸。ちょっと冷たいけど、静かに帳簿をつけてる幽霊。段ボールの井戸を爆破したゾンビ犬。


 (なんだったんだろ、あの人たち……)


 意味は、わからなかった。


 でも。


 完璧に整えた自分の部屋を、ぐちゃぐちゃにされたあの瞬間。


 ほんの少しだけ、胸の重たさが、すうっと軽くなった気がした。


 笑ってなんか、いないけど。


 でも、ちょっとだけ……楽しかった。


 (……完璧じゃなくても、いいのかな)


 その考えが、ふっと、心のなかに灯った。


 コン、コン。


 控えめなノックの音。


 ゆっくりと、部屋のドアが開いた。


 「咲良、起きてたの?」


 母親が、そっと部屋に入ってきた。手には、湯気の立つミルクの入ったマグカップ。


 「眠れないとき、これ飲むとちょっと落ち着くかも……」


 やさしい声。でも、その目には、少しだけ焦りのようなものが宿っていた。


 「ごめんね、さっきは……お母さん、咲良のことが心配で」


 咲良は、布団の中から、母を見上げる。


 今なら、言えるかもしれない。ほんとうのこと。


 でも。


 「でも、咲良は強い子だから。きっと、だいじょうぶよね?」


 その一言に、咲良は、一瞬だけ母の目を見て……こくり、と、小さくうなずいた。


 (……ほんとは、だいじょうぶなんかじゃないのに)


 ぽとん。


 最後のひとつの嘘玉が、床に転がった。



 ぽとん。


 最後のひとつの嘘玉が、床に落ちた、その瞬間だった。


 カチン。


 玉が硬い音を立てて、光をまといはじめる。


 びしぃぃぃっ!


 部屋の空気が、急に引き裂かれるような音を立てた。何かが割れるような音。空中に、見えないヒビが走っていく。


 その異変に、廊下にいたおばけ社のメンバーたちも、すぐに気づいた。


 「まずい、臨界だ!」


 センが立ち上がり、全員がドアを開けて部屋になだれ込む。


 光る嘘玉たちが、床に転がっている。咲良は布団の中で、小さな体をさらに小さくまるめていた。


 「咲良ちゃん、このままじゃ……心が閉じきっちゃう!」


 櫻子の声が、部屋全体を震わせる。


 その言葉をきっかけに、三沢おばけ社の面々が一斉に動き出した。


 ぷるりんが、にゅるりと身を伸ばして、光る嘘玉をそっと包みこむ。ポチゾンビはぐるるる……と唸りながら、咲良の布団の前にぴたりと座る。


 センは帳簿を睨みつける。


 「この局面を越えられるのは、本人の『声』だけだ」


 櫻子は、布団のそばにそっと腰を下ろす。咲良の震える指が、光に照らされていた。


 「咲良ちゃん……」


 櫻子は、かすかな声で問いかけた。


 「わかるよ、わたしも――ほんとは、すごくこわい」


 咲良のまぶたが、ぴくりと動く。


 「『ちゃんとやってます!』って笑いながら、ほんとは、誰かに頼りたくて」


 「『大丈夫』って言うたびに、胸がギュッて苦しくなって……」


 胸に手をあてて、櫻子はゆっくり息を吸い込む。


 「だから……咲良ちゃんの中の声、ちょっとだけでいい。教えてくれないかな?」


 咲良のまつげが、かすかに震えた。唇が、きゅっと結ばれる。


 けれど。


 ぽつり、と。


 「……ほんとは、宿題やってないの」


 その瞬間、一つの玉がふわっと光り、シャボン玉のようにはじけて、消えた。


 「ほんとは……休み時間、ずっとひとり。だれも話しかけてこないから……本、読んでるだけ」


 もう一つの玉が、すぅっ、と空気に溶けていく。


 少しずつ、少しずつ。


 重たかった空気が、やわらいでいく。


 咲良の手が、震えながらシーツを握った。


 そして。


 「ほんとは……お母さんに、もっと見てほしかったの」


 「『いい子』じゃなくて、わたしのこと、ちゃんと見て……『ギュー』ってしてほしかったの……!」


 その瞬間。


 残っていた玉たちが、いっせいに光を放ち始める。


 パァァァ……ッ。


 部屋いっぱいに、あたたかい光の粒が舞い上がった。


 蛍の群れのように。


 ちらかったぬいぐるみも、くしゃくしゃの布団も、涙のあとも。


 全部を、やさしく、やさしく照らしていく。



 咲良の涙とともに、嘘玉たちは光となって舞い上がった。


 その光の中で、立ちつくしていた母親が、そっと咲良を抱きしめた。


 「ごめんね……嘘つきだったのは、私のほうだね……」


 そのひとことに、光たちはますます強く、やわらかく輝いた。


 光の粒は、ぬいぐるみたちの頭に落ちて、また空へと昇っていく。


 部屋はもう、さっきまでの冷たさが嘘のように、あたたかさで満ちていた。


 「咲良……」


 母親は、咲良の名前を、震える声で呼ぶ。


 「ごめんね……ごめんね、咲良……! お母さん、ぜんぜん気づいてあげられなくて……!」


 「お母さん……」


 咲良は、母の背中に、そっと腕を回した。


 ふたりは、ただ、静かに泣いていた。


 しばらくして。


 咲良は、ぽつりと問いかけた。


 「ねえ、嘘って……ぜんぶ、悪いことなのかな?」


 母の腕の中から顔をあげた咲良に、櫻子はにっこり微笑む。


 「ううん、私は、そうは思わないよ」


 「え?」


 「自分の弱い気持ちを守るために、とっさに『鎧』みたいに嘘をつくこともあるし……」


 「……鎧?」


 「うん。それに、誰かを傷つけたくなくて、本当のことを言わないっていう『やさしい嘘』も、あると思う」


 咲良は、じっと櫻子の顔を見つめた。


 「じゃあ、今日の私のは……?」


 問いかけるその声は、少しだけ震えていた。


 「それはね……」


 櫻子は、咲良の目をしっかりと見て、はっきりと言った。


 「『苦しかったんだよ』っていう、咲良ちゃんの、大事な心のサインだったんだよ」


 咲良は、はっ、と目を見開いた。


 それから、ちょっとだけ照れたように笑って、ぬいぐるみのひとつを手に取った。


 そして、その位置を少し動かす。


 きっちり並べるんじゃなくて、隣のぬいぐるみに、ちょっと寄り添うように。


 「じゃあ、今度は……『ほんとう』のこと、言ってみる練習……してみる」


 そう言った咲良の声は、さっきよりも、ほんの少しだけ明るかった。



 夜が明けた。


 三沢の町に、ゆっくりと朝の光が差し込む。


 咲良の部屋には、もうおばけ社の姿はなかった。昨夜、櫻子たちはそっと帰っていったのだ。


 散らかっていたぬいぐるみたちは、元の位置に戻されていたけれど、どこか肩を寄せ合うように並んでいる。その中に埋もれるように、咲良が布団にくるまっていた。


 目をぱちりと開ける。


 まだ、少しだけ胸が重い。でも、それは昨日よりもずっとやわらかくなっていた。


 「……おなか、すいた」


 ぽつりとつぶやいた声に、すぐ返事があった。


 「ちょうどよかった。温め直してたの、できたよ」


 部屋の引き戸がすうっと開いて、湯気の立つマグカップを持った母親が入ってきた。中身は、あたたかいミルクだった。


 「ほら、飲んで。少し落ち着くかも」


 「うん」


 咲良は、そっと起き上がり、ミルクを受け取る。湯気が、胸の奥までふわりと届いた。


 母は、少し迷うような目をしながら、咲良の隣に座った。


 「咲良……ごめんね。昨日は、ちゃんと気づいてあげられなくて」


 咲良は、ミルクをひと口飲んでから、そっとつぶやいた。


 「……ねえ、お母さん。おかわり、ある?」


 その言葉に、母親は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。


 「あるに決まってるでしょ。ほんとうに、たくさんね」


 その「ほんとう」という言葉に、咲良の肩がふるふると震えた。


 りぃん。


 そのとき、どこからともなく、透き通るような鈴の音が、部屋いっぱいに広がった。


 咲良ははっとして顔を上げる。


 「今の……」


 でも、母には何も聞こえていないようだった。


 ただ咲良だけが、そのやさしい音に包まれていた。

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