第3話 『メイド、お邪魔ですか?』
朝食の席で、俺はスマホのメモを開いた。
「意味、百個書き出すと言ったからな」
「拝見します」
結は俺の向かいに座りながら、どこで見つけたのか分からないほど、渋いデザインの湯呑みで、びっくりするほど濃い色のお茶を飲んでいる。ちなみに母さんはもう仕事に出かけた。
「一、まず普通じゃない」
「普通は理由ではなく、状態なのでは。普通の定義をお願いします」
地味に突っかかってくる。
「二、俺が落ち着かない」
「主観すぎます。もっとサンプル数を増やしてから出直してください」
結がつまらなそうにお茶を啜った。
やっぱりこいつ地味に突っかかってくる。
「三、心臓に悪い」
「まずは病院に行った方が良いのでは。添い寝はむしろ心拍の安定に寄与するという報告がありました」
「どこのデータだ」
「インターネット掲示板です。その方は、ずいぶんはっきりと主張されておられました」
そんなもん信じるなよ、と。俺はため息をつきながら、頭を抱えていた。
「四、年頃の男女が同じ布団で寝るのは、その、色々とよくない。本当に色々な意味でな」
「存じております。ですので、服は脱ぎませんでした」
結はこくりと頷いた。俺はがくりと項垂れた。
「一般的に、年頃の男女の同衾は性的な意味を帯びるとされ、多くの社会的な問題を生じます。婚姻制度、貞操観念、噂の伝播経路まで含めて、きちんと説明と対策を行います」
「だから、それが分かってるなら——」
「私が言いたいのは、そこではありません」
結が湯呑みを静かに置いた。
「ルールは知っております。知らないのは、離れて眠る必要性のほうです。ご主人様、ホンネとタテマエは別ものです」
「俺が気まずいからに決まってんだろ」
当たり前のことを言わせるな。
そして五番目以降を読み上げる気力が消えた。実はノートには七番目までしか書いていなかったし、六番目は「美人すぎる!」だった。
今、見てみると、クソ恥ずかしかった。
「承知しました」
「え?」
「ご主人様が困る。それは業務上、最も重大な事態です。客間で一人正座しておりましょう。夜、ご主人様が寝ている間は客間で正座。復唱しました」
結が人差し指をぴんと立てながら、俺に同意を求めてくる。やめろ。そこまでは俺も言っていない。
「ちょっと待て。変なことを強要したみたいにするな」
「正座とは、反省と誠実を表す態度だと学んでおりますが」
「確かにそうだけど。そもそも俺は、寝ている間に布団に入り込んでくるんじゃないぞ、って言っただけだからな」
◇
帰宅すると、我が家がまるで違う空間になっていた。
玄関の靴たちが向きを揃えて並んでいて、廊下の床が光り輝き、洗面所の鏡から、数多の水垢が消えていた。俺の部屋は――部屋は、そのままだった。ドアの前に付箋が貼ってある。
『私室は
そういうことは知っている、という意味らしい。いや、待てよ。昨夜、命令なく、俺の布団に入ってきていたはずだが。
夕食は四品出た。米の炊き加減が、うちの炊飯器の性能を超えていた。どうやったのかは分からない。
「明日から、お弁当もお作りしますね」
味噌汁をよそいながら、結が言った。
弁当。その単語で、ふと冷蔵庫の花柄の容器を思い出した。大丈夫だよな、と思いつつも、俺はとりあえず、ああ、とだけ答えておいた。
夜、結は宣言どおり客間に下がった。
布団に入って、電気を消して、部屋はとても静かだった。昨日まで通りの広さのはずだった。
「役得だったような……」
うん、考えないことにした。俺はそれがとても得意だ。
◇
目が覚めると、床で結が正座していた。
「おい、心臓に悪いんだよ。じっと見つめるな」
「おはようございます、ご主人様。起床補助に参りました」
「客間にいろって言っただろ」
「夜、ご主人様が寝るときは客間。きちんと守りました」
えっへん、と結は胸を張った。
「いまは朝で、ご主人様も起きています。起床補助は正座とは別です」
建前はそのとおりだった。そのとおりであることが屁理屈みたいだが。
どこが屁理屈かを説明する気力が、朝の頭にはなかった。
着替えて下へ降りると、チャイムが鳴った。
月曜日。きっと唯だ。
唯は昔から、月曜だけうちに寄って一緒に出る。なぜ月曜なのか理由は聞いたことがない。聞く必要を感じたこともない。そういうものだと思っている。
え、大事なのはそっちじゃないって?
とりあえず、ドアを開けた。
「おはよ。今日も……」
見慣れた栗色のセミロング。
唯の挨拶が途中で止まった。射抜くような視線が俺ではなく、後ろで一礼している黒白の『何か』に固定される。
「初めまして。結と申します」
「今朝、卵焼き多めに――」
台所から母までもが顔を出す。
俺にとっての不幸が連鎖していく。
「あら唯ちゃん、話した? 結ちゃんのこと。ほら、識の従姉妹の。しばらくうちにいるのよ」
「は? 従姉妹?」
唯はその言葉を、恐ろしく低いトーンで読み上げた。彼女は物腰柔らかめの世話焼き女子がベースだが、たまに建前を完膚無きまでにぶち壊すような本音をぶつけてくる。
「識に、従姉妹?」
「はい、従姉妹です。似てるってよく言われます」
(どこがだよ!)
「……へぇ」
結が完璧な角度でもう一度礼をする。
唯は俺を見た。俺は慌てて目をそらした。そらしてから、そらす必要はなかったと気づいたが遅かった。
「ふうん。誰、その女」
それ以上、唯は喋らなかった。喋らないことが、何よりも重かった。
(勘弁してくれ。なんで怒ってんだよ!)
三人で家を出ると、角のところで回覧板を持った斜向かいのおばさんに会った。
「あら、結ちゃん。おはよう。今日から学校?」
「はい。行って参ります」
「頑張ってねえ」
初対面のはずの二人が、まるで十年来の挨拶をして別れた。俺は横目で唯を見た。
唯はその一部始終を見ていた。見ていたのだが。眉のあいだに深い溝だけを作って、相変わらず何も言わなかった。
通学路の途中で、唯が一度だけ口を開いた。
「いつから居たのかな」
質問は俺にではなく、結に向いていた。
結は、あっけらかんとしている。
(朝から何なんだよ、この空気!)
「三日前からです。正確には測っておりませんが」
それから、余計なことも付け足した。
「もっと前からの気もしますが」
「何それ」
「運命という時間軸。いや、ただの世迷言かもしれません」
唯はそれ以上は追わなかった。ただ、歩幅がいつもより半歩速くなった。俺は会話の中身より、その半歩のほうを数えていた。
(機嫌が悪いと、唯は早足になる)
◇
校門で結は立ち止まり、頭を下げた。
「では私は、編入の手続きに行って参ります」
「手続きって、今からするのか」
「もう済んでいる頃です」
結が職員棟の方に消えると、唯が言った。
「識の家って、前からこんなだっけ」
「さあ」
「悪趣味だね。女の子にメイド服着させちゃって」
さあ、で済むわけがないことは分かっていた。でも、仕方がないだろ。こんな時に俺の口から出てくるのはいつも、雑な返事だけだった。
◇
朝のホームルームで、俺の隣の田代が突然手を挙げ、『最近、視力が落ちた気がするので前の席に移りたい』と申し出た。周りからは『ポ●ノサイトの見過ぎだろ』とか、『フ●ンザ・タシロ』などとくだらない言葉が飛び交う。
担任はそれを面倒くさそうに許可した。しかし本来の田代の視力は両目一・五のはず。
先週の身体測定でそれを自慢していた。
(グッバイ、田代……)
俺の隣が、空いた。
三時間目のあと、担任が一人の生徒を連れて入ってきた。
「急だが、転校生を紹介する」
制服姿の結が、担任の隣に立っていた。
一瞬、誰だか分からなかった。メイド服という記号を失った結は、ただ作り物みたいに整った顔の転校生だった。なぜかちょっとギャルっぽくも見える。
教室の空気が、分かりやすく浮ついた。
理由は極めて単純だった。結があまりにも美人だからだ。
「結です。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします」
礼の角度が完璧すぎて、どこかの式典みたいになった。
「席は――そこが空いてるな。佐久良の隣」
通路を歩いてくる結がまっすぐ俺を見て、着席し、囁くように小声で言った。
「改めまして。よろしくお願いしますね、ご主人様」
「――」
前の席の女子が振り返った。聞こえていた。
「えっ、ご主人様?」
「佐久良ヤバっ」
「あんな美人に何言わせてんの」
(やめろ! 俺の平和な日常が……)
ざわめきが広がる前に、結は立ち上がって教室全体へ礼をした。
「幼少期からの
結が人差し指をピンと立てながら、クラスの中心で余計なことを喋る。
(助けてください!)
「ええー、なにそれ」
「従姉妹なんだ」
「そんな前からご主人様って呼ばせてるの?」
「ヤバすぎ」
「呼ばせてない。不純な主従関係なんてない」
俺の抗議は、ざわめきに混じって消えた。結は着席して、素知らぬ顔でノートを開いている。あとで禁止令を出す。絶対に出す。
昼までの二時間で、結はクラスの大半の名前を覚えた。落とした消しゴムを拾い、プリントの回し方を最適化し、日直の仕事を三割手伝った。誰に対しても公平だった。
俺に対する態度と、初対面のクラスメイトに対する態度の丁寧さが平等だった。
それを見て、俺は何かが引っかかった。引っかかったよく分からない感覚をまとめる前に、昼休みになった。
◇
昼休み。
明らかに不機嫌そうな唯に、結が言った。
「唯様。実は存じております」
「……なんで様?」
「勢いです」
よく分からない頷きと共に、結は包みを二つ出した。一つを俺の机に置く。
「本日よりお弁当です。ご主人様」
「その呼び方を、今すぐ――」
包みを開けると、弁当箱の中身は雑誌の写真みたいに整列していた。卵焼きの断面が、定規で線を引いたみたいに揃っている。
唯は、自分の弁当箱を開けながら、俺の弁当を一度だけ見た。一度だけ見て、何も言わずに、自分の箸を抜き取った。
唯の弁当の卵焼きは、端がすこし焦げている。昔からそうだ。峯山の家の味つけは甘くて、たまに持ってくる差し入れで、俺はそれを知っている。
結はそのあいだ、唯の動きをじっと見ていた。
見て、それから、自分の弁当箱から卵焼きをひとつ箸で持ち上げ、無言で唯の弁当箱の蓋に置いた。
「……何」
「あの、食べますか。お好きなようなので」
「もらう。別に好きじゃないけど」
別に余ってはいなかった。結の弁当箱には、卵焼きの抜けた空白がひとつできていた。
唯は蓋の上の卵焼きを見下ろして、それから結を見た。結はもう素知らぬふりで、なぜそうしたのかを本人も知らないような顔をしていた。
――という風に、俺には見えた。それが何なのかは、あまり考えないことにした。
メイド、拾いませんか? α作 @alpha_craft
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