第39話 知っておきたい

翌朝。

さくやはいつも通り出社してきた。

「おはようございます。」


「おはよう。」


それだけ。

昨日の女性の話はしなかった。


当然だった。

さくらも、

聞かなかった。



午前中。

いつものように、

仕事をする。


さくやが誰かに呼ばれる。

話を聞く。

席へ戻る。


何も変わっていない。


それなのに、

さくらは時々、

昨日のことを思い出した。


あの人、誰だったんだろう。

名前も知らない。

関係も知らない。


ただ、

二人は知り合いだった。


そして、

久しぶりに会った。


それだけ。


昼休み。

少し離れたところから、

さくやの声が聞こえた。

「昨日、偶然知り合いに会って。」


さくらの手が止まった。


「へえ。どこで?」

同僚が聞く。


「駅の近くです。」


「珍しいな。」


「俺もびっくりしました。」


さくやは、

それ以上話さなかった。


知り合い。

さくらは、

その言葉を頭の中で繰り返した。

名前は出なかった。

どういう知り合いなのかも、

分からなかった。


昨日より、

分かったことは一つだけ。


偶然だった。


それだけだった。



その日の夜。

さくらはノートを開いた。


 朝は弱い

 コーヒー

 甘いもの

 映画

 ゲーム

 仕事の予定。

 現場。

 打ち合わせ。

 外出。


そして、

少し離れたところに、

昨日書いた二つの言葉。

 

 駅前

 女性


そこだけが、

妙に浮いて見えた。



「……結構知ってると思ってたのにな。」



小さく呟く。



少し前まで、

知っていることが増えるのが嬉しかった。

さくやのことを、

前より理解できているような気がした。


でも。

知らないことも、

たくさんある。


友達。

家族。

前の部署。

昔のこと。


そして、

昨日の女性。


もしかしたらあの人は、

自分が知らない頃のさくやを知っているのかもしれない。

自分の知らない話を、

知っているのかもしれない。


そう考えると、

胸の奥が少しだけざわついた。


前に書いた言葉が、

目に入った。


『知っていた方が、助けられる。』


あのときは、

仕事の予定を知っていれば、

それで十分だった。


でも。

仕事以外のことで、

さくやが困っていたら?


自分の知らないところで、

何かを抱えていたら?


知らなければ、

気づけない。

気づけなければ、

助けられない。


さくらは、

昨日書いた、

 

 女性


という文字を見る。

名前すら、

知らない。

________________________________________

翌日。

仕事中さくやが同僚と話していた。

「前の部署にいた頃は――」


その言葉に、

さくらは顔を上げた。


前の部署。


そこにも、

自分の知らないさくやがいる。


昨日の女性も。

昔の友人も。

家族も。

自分と出会う前の時間も。


知らない。

知らない。

知らない。

知らない。

知らない。

知らない。

知らない。


今までは、

知らなくても何とも思わなかった。

でも、

今は違う。


帰り道。

雨が降っていた。

傘を打つ雨音を聞きながら、

さくらは歩く。


知っていることが増えるほど、

安心した。


さくやのことを、

ちゃんと分かっているような気がした。


でも。

その安心を知ってしまったからこそ、

知らないことが、

怖くなった。


もし、

知らないところで困っていたら。


もし、

誰にも言わずに何かを抱えていたら。


そのとき、

自分は何もできない。


それは、

嫌だった。


知らなければ、

気づけない。

知らなければ、

助けられない。



だったら――



知らなきゃ。

雨の向こうに、

昨日の女性の姿が浮かんだ。


名前も知らない。

関係も知らない。

まだ何も知らない。

だからこそ。

知る必要があるように、

さくらには思えた。

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