第38話 知らない事

夕方。

仕事が一段落した頃、

さくやが時計を見た。


いつもより少し早い。

パソコンを閉じ、鞄に荷物を入れ始める。


「今日、早いね。」

さくらが声をかけた。


「はい。」


「映画?」


「違いますよ。」

さくやが笑う。


「じゃあゲーム?」


「なんで俺の休日みたいになってるんですか。」


「だって好きなんでしょ。」


「好きですけど。」

二人で笑う。


それから、

さくやは鞄を肩にかけた。

「今日はちょっと寄るところがあるんで。」


「そうなんだ。」


「はい。じゃあ、お先に失礼します。」


「お疲れさま。」


いつも通り、

さくやは部屋を出ていった。


さくらも、

自分の仕事へ戻った。

メールを返す。

資料を確認する。


それだけだった。

けれど、しばらくして手が止まった。



寄るところ。



どこだろう。

そう思った。


買い物かもしれない。

食事かもしれない。

何か用事があるだけかもしれない。


自分には関係のないことだった。

それなのに、

なぜか気になった。



少しして、

さくらも仕事を終えた。

会社を出る。

駅へ向かって歩いていると、

前方に見覚えのある後ろ姿があった。


さくやだった。


まだ、

駅には着いていない。

同じ方向なんだから、当たり前か。

さくらはそのまま歩いた。


少し距離がある。

さくやはこちらには気づいていない。


やがて、

いつもなら駅へ向かう角に差しかかる。


さくやは、

曲がらなかった。

まっすぐ歩いていく。


寄るところ。

その言葉を思い出した。


さくらの足は、

そのまま前へ進んだ。


駅は後ろだった。


少し先まで。

そう思った。


どこへ行くのか気になっただけ。



さくやとの距離は、

少しずつ離れていく。


だから、

もう少し。

次の角まで。


そこまで行けば帰ろう。


そう思いながら歩いた。



けれど、

次の角を曲がっても、

さくらは足を止めなかった。



しばらくすると、

さくやが立ち止まった。


さくらも、

少し離れたところで足を止める。


誰かを待っている――

ようには見えなかった。

さくやはスマートフォンを見て、

また歩き出そうとした。


そのときだった。


「あれ?」


女性の声がした。


さくやが振り返る。

少し離れたところに、

一人の女性が立っていた。


仕事帰りなのだろう。

ジャケット姿で、

肩には鞄をかけている。


女性も、

驚いた顔をしていた。


「……久しぶり。」

さくやが、

少し驚いたように笑う。


「久しぶり。」

女性も笑った。



さくらは、

その場に立っていた。

待ち合わせではない。

たまたま会った。


それは、

見ていれば分かった。


二人はその場で話し始めた。

何を話しているのかは、

ここからでは聞こえない。


ただ、

さくやが笑っている。

女性も笑っている。

それだけだった。


「誰だろう。」

最初に浮かんだのは、

それだった。


会社の人ではない。

少なくとも、

さくらは見たことがない。


友達だろうか。

知り合いだろうか。

どこで知り合ったのだろう。


さくらは、

少し離れた場所から二人を見ていた。


やがて、

女性が手を振った。

さくやも軽く手を上げる。


二人は、

別々の方向へ歩き出した。



さくらは、

その場に残った。

追いかける理由は、

もうなかった。


駅へ戻る。


来た道を歩きながら、

さっきの女性の顔を思い出す。

名前は知らない。

仕事も知らない。


さくやと、

どういう関係なのかも知らない。


何一つ、

分からない。


ただ、

さくやが、

あの人を知っている。

それだけは分かった。

________________________________________

帰りの電車。

さくらは窓の外を見ていた。


朝は弱い。

甘いものが好き。

映画。

ゲーム。

仕事の予定。


少し前まで、

自分はさくやのことを、

結構知っていると思っていた。


でも。

今日見た女性のことは、

何も知らない。

自分が知らない人と、

自分が知らない話をして、

自分が知らない顔で笑っていた。


当たり前のことなのに。

なぜか、

そのことだけが、

いつまでも頭に残っていた。

________________________________________

その夜。

さくらはノートを開いた。

ペンを持つ。

少し迷ってから、

ページの余白に書いた。


 駅前


その下に、


 女性


二文字。


そこで、

手が止まった。

それ以上は何も書けなかった。

名前も。

関係も。

何も知らないから。


さくらは、

しばらくその二文字を見つめていた。

知らないことは、書けない。

その空白が、

今までよりずっと、

大きく見えた。

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