第9章 雨のあと
第40話 再会
数日後。
「橘さん、ちょっといい?」
主任から声が掛かった。
「はい。」
「今日、マイキディスプレイの営業さんが来るから、応接室まで案内してもらえる?」
「分かりました。」
さくらは席を立った。
廊下を歩き、応接室へ向かう。
扉の前で一度だけ髪を整えてから、
「失礼します。」
扉を開けた。
「お待たせしました。」
中には、一人の女性が座っていた。
スーツ姿。
肩まで伸びたきれいな栗色の髪。
透き通った青色の瞳。
「お世話になっております。」
「マイキディスプレイの髙橋です。」
女性が立ち上がる。
その顔を見た瞬間、さくらはほんの少しだけ足を止めた。
――どこかで見たことがある。
そんな気がした。
けれど、思い出せない。
「こちらへどうぞ。」
「ありがとうございます。」
女性を案内しながら、さくらはもう一度その顔を見る。
やっぱり、見覚えがある。
でも、どこで見たのかまでは分からなかった。
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打ち合わせが始まった。
「こちらが今回ご提案させていただく機材になります。」
女性は資料を開き、慣れた様子で説明を続けている。
仕事のできる人だ。
それが、さくらの最初の印象だった。
主任が質問をする。
女性が答える。
―――コン コン コン
応接室にドアをノックする音が響いた。
「失礼いたします。」
来客用のお茶を持って来たさくやだった。
女性と目が合った。
二人とも動かなかった。
「……え?」
女性が小さく声を漏らした。
さくやも目を見開く。
「……マディー?」
女性の表情が変わった。
「……さくや?」
さくらは二人を見る。
主任は気づかず、資料をめくっている。
「お知り合い?」
さくらが何気なく聞く。
「……はい。」
さくやが答えるより先に、女性が少し先に笑顔で答えた。
「昔の知り合いです。」
「そうなんですね。」
さくらはそれ以上聞かなかった。
ただ、さっきから感じていた既視感だけが、消えずに残っていた。
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打ち合わせが終わった。
「本日はありがとうございました。」
主任が頭を下げる。
「こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございました。」
女性が資料をまとめる。
そして鞄から名刺入れを取り出した。
「改めまして。担当の髙橋です。」
一枚の名刺が差し出される。
さくらは両手で受け取った。
そこには、
【髙橋 Madison】
と書かれていた。
その下には、
【Madison Takahashi】
とアルファベットの名前が並んでいる。
「……マディソンさん?」
さくらが読み上げる。
女性は笑った。
「はい。マディソンです。母がアメリカ人なんです。」
「普段はマディーって呼ばれてます。」
「そうなんですね。」
「よかったら、マディーと呼んでください。」
「分かりました。ありがとうございます。」
さくらは名刺にもう一度目を落とした。
その名前を見ているうちに、ふと何かが引っかかった。
――スーツ姿
――この顔。
――駅前。
そこで、記憶がつながった。
数日前。
駅前で、さくやが誰かと話していた。
仕事帰りだった。
さくらは少し離れた場所から、偶然その姿を見かけていた。
そのとき、さくやと話していた女性。
あの人だった。
「……あ。」
思わず声が漏れる。
「どうしました?」
マディーが振り返る。
「あ、いえ……」
さくらは首を振った。
「前に、駅前でお見かけした気がして。」
「ああ。」
マディーが少し考える。
そして、さくやを見る。
「そういえば、この前ね。」
「うん。」
「駅前でばったり会ったんですよ。」
さくやが頷く。
「そうでしたね。」
二人は少し笑った。
それだけの会話だった。
けれど、さくらにはその何気ないやり取りが妙に残った。
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「じゃあ、また。」
マディーがさくやに声を掛ける。
「はい。また。」
「お仕事、頑張ってね。」
「ありがとうございます。」
「では、失礼いたします。」
マディーが頭を下げる。
さくらも、
「ありがとうございました。」
と頭を下げた。
女性が廊下を歩いていく。
その背中が見えなくなるまで、さくらは見送った。
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席へ戻る。
さくやはいつも通り、パソコンの画面を見ていた。
「さくや君。」
「はい?」
「さっきの人。」
「はい。」
「昔から知ってる人なの?」
さくやは少し考えた。
「そうですね。」
「どれくらい?」
「……三年くらい前まで、お付き合いしていました。」
さくらの手が止まった。
「……そうなんだ。」
「はい。」
「三年前?」
「そうです。」
さくやは特に隠す様子もなく続けた。
「仕事が忙しくなって、お互い余裕がなくなっちゃって。」
「……それで別れたの?」
「まあ……そうですね。」
少しだけ笑う。
「どっちが悪いとかじゃなくて。お互い仕事ばっかりになっちゃって。」
「そっか。」
「だから、喧嘩別れとかじゃないですよ。」
「……うん。」
さくらは頷いた。
さくやは再び画面へ目を戻す。
いつもと変わらない。
何も特別なことが起きたようには見えなかった。
けれど、さくらの中には一つだけ、新しいものが残っていた。
マディー。
その名前。
そして、
三年前。
さくらは席に戻った。
帰宅後。
いつものようにノートを開く。
これまで書いた項目を眺める。
好きなもの。
苦手なもの。
生活習慣。
仕事。
休日。
予定。
その下に、新しい項目を作った。
「マディー」
ペンが止まる。
少し考える。
その下に、
「3年前まで交際」
と書いた。
さらに何かを書こうとしたけど、ページを閉じた。
まだ、何も知らない。
ただ一つ。
今日まで知らなかった名前を、一つ知った。
それだけだった。
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