第37話 知ってること
仕事をしていると、
いろいろな会話が聞こえてくる。
意識して聞かなくても、
同じ部屋にいれば自然と耳に入る。
「咲夜君、コーヒー買いに行くけどいる?」
「お願いします。」
「いつもの?」
「はい。」
主任がそう言って部屋を出ていく。
さくらは画面を見たまま、
何となく思った。
朝はコーヒー。
もう、
知っていることだった。
昼休み。
「咲夜さん、これ食べます?」
同僚が小さな菓子を差し出す。
「いいんですか?」
「もらいもの。」
「じゃあ一個。」
「甘いの好きですよね。」
「好きです。」
それも、
知っている。
少しして別の会話が聞こえる。
「今週末も映画?」
「いや、今週は行かないです。」
「珍しい。」
「たまには家にいますよ。」
「何してんの?」
「ゲームとか。」
さくらの手が、
ほんの少し止まった。
ゲームもするんだ。
これは、
知らなかった。
一つ知ると、
今まで聞き流していたことまで、
自然と残るようになった。
朝は弱い。
コーヒーを飲む。
甘いものが好き。
一人で映画へ行く。
ゲームもする。
仕事では、
頼まれるとほとんど断らない。
外出の予定。
現場の日。
帰社する時間。
一つ一つは、
何でもないことだった。
でも。
並べてみると、
さくやという人間の輪郭が、
以前より少しだけ見える気がした。
その夜。
さくらは仕事用のノートを開いた。
この間から書き始めた、さくやの予定。
水曜 午後外出
木曜 午前打ち合わせ
金曜 現場
ページを眺める。
その余白に、
何となくペンを走らせた。
朝は弱い
少し下に、
コーヒー
甘いもの
さらに、
映画
ゲーム
書き終えてから、
さくらはページを眺めた。
仕事の予定の横に、
仕事とは関係のない言葉が並んでいる。
けれど、
違和感はなかった。
忘れないように、
書いただけだった。
「……結構知ってるかも。」
思わず、
小さく笑った。
最初に会った頃は、
何も知らなかった。
どんな人なのか。
何が好きなのか。
休日に何をしているのか。
今は少し違う。
話していることを聞けば、
何となく分かる。
行動を見れば、
「ああ、これか」と思える。
知らなかったことが、
少しずつ、
知っていることに変わっている。
それが、
妙に心地よかった。
さくらはノートを閉じた。
知っている。
そう思えることが、
少し嬉しかった。
さくやのことを、
前より理解できているような気がしたから。
このときはまだ、
その反対側にあるものを、
意識していなかった。
―知らないこと。
それがどれだけ残っているのかを。
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