第32話 境界線
翌朝。
昨日貸した折り畳み傘は、
綺麗に畳まれて、さくらの机の上に置かれていた。
「おはようございます。」
声をかけられて顔を上げる。
さくやだった。
「傘、ありがとうございました。」
「ちゃんと覚えてたんだ。」
「当たり前じゃないですか。」
「私なら忘れてたかも。」
「でしょうね。」
「ちょっと。」
さくやが笑う。
さくらも笑った。
何でもない朝だった。
さくらは共有のスケジュールを開いた。
自分の予定を確認して、
画面を閉じようとする。
そのとき、
見慣れた名前が目に入った。
橘 咲夜
午後から外出。
取引先との打ち合わせ。
帰社予定は夕方。
普段ならそれだけで閉じていた。
けれど今日は、
少しだけ目に留まった。
「今日、午後いないんだ。」
独り言のように呟く。
昨日の傘のことを思い出した。
その前の日の、
機材リストのことも。
どちらも、
偶然気づいたから助けることができた。
だったら。
最初から知っていれば、
もっと早く気づけることもあるのかもしれない。
そう思った。
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午後。
さくやが外出してから、
一本の電話が入った。
「橘さん、今日いますか?」
さくらが電話を取っていた。
「午後から外出しています。夕方には戻る予定です。」
「あ、そうなんですね。じゃあ明日でも大丈夫です。」
「伝えておきます。」
電話を切る。
それだけだった。
けれど、
少しだけ気分がよかった。
予定を知っていたから、
すぐに答えられた。
誰かに聞く必要もなかった。
仕事が、
ほんの少しだけスムーズに進んだ。
知っていたから。
その言葉が、
何となく頭に残った。
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夕方。
さくやが戻ってきた。
「お疲れさまです。」
「おかえり。」
「ただいまです。」
さくらは昼間の電話について伝えた。
「ああ、ありがとうございます。」
「明日で大丈夫だって。」
「分かりました。」
さくやは自分の席へ戻っていく。
また、
ありがとうと言われた。
でも今回は、
何かをしてあげたわけではない。
ただ、
予定を知っていただけ。
それでも、
役に立てた。
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その日の帰宅後。
さくらは鞄から一冊のノートを取り出した。
以前から仕事のことを書いているノートだった。
ページをめくる。
打ち合わせの内容。
自分の作業予定。
忘れないように書いたこと。
その中に、
今日の予定を書き足した。
水曜 さくや君 午後外出
書いてから、
少し考える。
夕方帰社
その下に付け加えた。
特別な意味はなかった。
仕事で必要になることが、
またあるかもしれない。
それだけだった。
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翌日の予定も確認する。
さくやは午前中に打ち合わせ。
午後は社内。
さくらは、
それも書いた。
ペンを置く。
二行だけ。
誰かに見られても、
ただの仕事のメモにしか見えない。
実際さくらにとっても、
それ以上のものではなかった。
ノートを閉じる。
昨日は、
傘があったから助けられた。
その前は、
自分にできる仕事だと分かったから助けられた。
今日は、
予定を知っていたから、
すぐに答えられた。
偶然気づくより、
最初から知っていた方がいい。
その方が、
必要なときに動ける。
さくらは、
机の上のノートに目を落とした。
知っていれば、気づける。
そして、
気づければ、
助けられる。
それは、
とても自然なことのように思えた。
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