第31話 傘

数日後、午後から雨が降り始めた、

朝の予報では曇りだったはずなのに。


窓の外では細かな雨粒がガラスを濡らしている。


「うわ、降ってる。」


誰かの声に、

何人かが窓の外を見た。


「傘持ってきてないな。」


「俺も。」


そんな会話が聞こえる。


さくらも窓の外を見た。

朝は降っていなかったから、

もちろん傘は持ってきていない。


ただ、

ロッカーには、折り畳み傘が二本入っていた。


本当は、

二本も置くつもりはなかった。

以前、急な雨が降った日に、

「そういえば置き傘なかったな」


と思って一本買った。


翌日。

ロッカーを整理していたら、

奥からもう一本出てきた。


自分で入れたことを、

すっかり忘れていたのだ。


結局、持って帰るのも面倒で、

そのまま二本とも置いてある。


さくらはそれを思い出して、

少しだけ笑った。


夕方になっても、

雨は止まなかった。


帰り支度を始めたさくやが、

窓の外を見た。

「あー……。」


「傘ないの?」


「ないです。朝、降ってなかったんで。」


「ちょっと待ってて。」

さくらはロッカーへ向かった。


中から、

折り畳み傘を一本取り出す。

「これ使って。」


「え、いいんですか?」


「うん。置き傘。」


「でも、さくらさんは?」


「もう一本あるから大丈夫。」


「二本も置いてるんですか?」


さくやが少し驚いた顔をする。


「……間違えて買ったの。」


「間違えて?」


「置いてないと思って買ったら、すでに一本置いてあった。」



一瞬の間。

さくやが吹き出した。

「何してるんですか。」


「忘れてたの。」


「普通、覚えてません?」


「だから忘れてたんだって。」


さくらも笑う。


さくやは傘を受け取った。

「じゃあ、ありがたく借ります。」


「うん。」


「ありがとうございます。助かりました。」


その言葉に、

さくらの手が一瞬止まった。


昨日と、

同じ言葉だった。


会社を出る。



二人はそれぞれの傘を開いた。

駅までの道。


「でも、本当に助かりました。」


さくやが言う。

「これなかったら、コンビニで買ってました。」


「じゃあ、私が忘れっぽくてよかったね。」


「それは違う気がしますけど。」

二人で笑った。


何でもない会話だった。



駅に着く。

「じゃあ、また明日。」


「はい。傘、忘れずに返します。」


「忘れてもいいよ。私も忘れてたくらいだし。」


「いや、それと一緒にしないでください。」


さくやは笑いながら、

改札の向こうへ消えていった。


さくらも、

自分のホームへ向かう。


昨日は仕事。

今日は傘。


どちらも、

さくやに頼まれたわけではなかった。



ただ、

自分が先に気づいた。

そして、さくやは喜んでくれた。


助かりました。


また、その言葉を思い出す。


________________________________________

電車の窓を、

雨粒が流れていく。


困ってから、

助けるのではなく。


困りそうなことに、

先に気づく。



それだけで、

誰かの役に立てる。


今日だって、

大したことはしていない。

たまたま二本あった傘を、

一本貸しただけ。


それでも、

さくやは笑っていた。


さくらも少しだけ嬉しかった。

困る前に気づけた。

そのことが、

昨日よりも少しだけ、


大切なことに思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る