第29話 違和感
翌朝。
さくやは、いつも通りだった。
「おはようございます。」
出社してきた社員に声をかける。
自分の席に鞄を置き、
パソコンを立ち上げる。
メールを確認しながら、
近くを通った同僚と昨日の話をして笑っている。
昨日の帰りに見た姿が、
少し気になっていた。
けれど、
こうして見ていると
何も変わっていない。
さくらは自分のパソコンへ目を戻した。
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午前中。
「咲夜君、午後の打ち合わせなんだけど。」
主任が声をかけた。
「はい。」
「先方から追加で確認事項が来てる。悪いけど、これも見てもらえる?」
「分かりました。」
主任から資料を受け取る。
「あと、昨日頼んだやつは?」
「あ、それもできてます。あとで共有しますね。」
「早いな。ありがとう。」
「いえいえ。」
いつものやり取り。
その直後。
「咲夜さん、すみません。」
今度は別の同僚だった。
さくやが振り返る。
「はい。」
「ちょっとこれ見てもらってもいいですか?」
「ああ――」
そこで、
ほんの一瞬だけ間があった。
一秒にも満たない。
「……はい。大丈夫ですよ。」
さくやは立ち上がった。
さくらの手が止まる。
昨日も、
似たような瞬間を見た気がした。
けれど。
それだけだった。
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昼休み。
さくらが弁当を食べ終えた頃、
さくやはまだパソコンに向かっていた。
「さくや君、お昼行かないの?」
「行きますよ。」
画面を見たまま答える。
「これだけ送っちゃおうと思って。」
「そうなんだ。」
「すぐ終わります。」
「うん。」
さくらはそれ以上言わなかった。
少しして、
送信音が聞こえた。
さくやが椅子から立ち上がる。
「よし。」
いつものように、
軽く伸びをする。
そのまま財布を持って、
同僚に声をかけた。
「飯行きます?」
「行く行く。」
「今日どこにします?」
「また蕎麦でいいんじゃない?」
「またですか。」
笑いながら、
二人で部屋を出ていく。
さくらはその背中を見送った。
やっぱり、
いつも通りだった。
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午後。
打ち合わせが終わったあと、
何人かが部屋へ戻ってきた。
「いやあ、長かった。」
同僚が椅子へ座りながら言う。
「先方、確認多かったですね。」
さくやも笑っていた。
「咲夜君、あれまとめてもらっていい?」
主任が言う。
「はい。」
「明日の午前中で大丈夫だから。」
「分かりました。」
「悪いね。」
「大丈夫です。」
その言葉に、
さくらは少しだけ顔を上げた。
『大丈夫です。』
昨日も聞いた。
今日も何度か聞いている。
別に、おかしな言葉ではない。
仕事を頼まれたとき、
誰だって使う。
さくやは昔からそうだった。
頼まれたら、嫌な顔をしない。
できることなら引き受ける。
それが、さくやだった。
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夕方。
部屋の中が少し騒がしくなっていた。
電話。
話し声。
キーボードの音。
「咲夜君。」
「はい。」
「これ、今日中にいけそう?」
「見せてもらっていいですか?」
資料を受け取る。
数秒、
中身を見る。
「……ああ。」
さくやが時計を確認した。
それから、
いつものように笑った。
「大丈夫です。」
「ほんと? 助かる。」
「はい。」
相手が離れていく。
さくやは資料を机に置いた。
そのまま、
しばらく動かなかった。
ほんの数秒。
椅子に座ったまま、
机の上の資料を見ている。
それから、
小さく息を吸った。
「よし。」
誰に言うでもなく呟いて、
作業を始めた。
さくらは、
少し離れた席からそれを見ていた。
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「何見てるの?」
隣から声がした。
さくらは我に返る。
「え?」
「いや、ぼーっとしてたから。」
「ああ、ごめん。」
「眠い?」
「ちょっとだけね。」
適当に笑って、
画面へ戻る。
自分でも、
どうしてさくやを見ていたのか分からなかった。
昨日のため息が、
頭に残っていたからかもしれない。
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しばらくして、
さくらは自分の作業を終えた。
時計を見る。
定時を少し過ぎている。
さくやは、
まだ仕事をしていた。
「今日、忙しい?」
何となく聞いた。
さくやが顔を上げる。
「俺ですか?」
「うん。」
「ああ……」
一瞬だけ、
机の上を見る。
「ちょっと立て込んでますけど、大丈夫ですよ。」
そして、
いつものように笑った。
「これ終われば、だいぶ落ち着くんで。」
「そっか。」
「はい。」
それだけだった。
疲れているとも、
しんどいとも言わない。
助けてほしいとも言わない。
だから、
さくらも何も言わなかった。
「じゃあ、頑張って。」
「ありがとうございます。」
さくらは自分の席へ戻った。
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帰る準備をしながら、
ふと考える。
昨日も、
今日も。
さくやは、
いつも通りだった。
笑っている。
話している。
頼まれた仕事を引き受けている。
何も変わっていない。
なのに。
ほんの一瞬だけ返事が遅れる。
誰も見ていないときに小さく息を吐く。
机の上の資料を何もせず眺めている。
それも、
ほんの数秒だけ。
「……気にしすぎかな。」
さくらは小さく呟いた。
そうかもしれない。
昨日、たまたまため息を聞いたから。
今日は、いつもなら気にも留めないことまで、
目についただけかもしれない。
鞄を持つ。
「お先に。」
「お疲れさまです。」
さくやの声が返ってくる。
いつもの声だった。
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エレベーターを待ちながら、
さくらはスマートフォンを見る。
特に意味もなく、
今日の日付を確認した。
忙しい時期。
打ち合わせも多い。
それなら、
少しくらい立て込むのは普通だ。
扉が開く。
乗り込む。
閉まる直前。
部屋の方をもう一度だけ見た。
さくやの姿は、
もう見えなかった。
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電車に乗ってからも、
さくらは少しだけ考えていた。
『大丈夫です。』
何度も聞いた言葉。
いつもの言葉。
それなのに今日は、
なぜか少しだけ耳に残っていた。
でも、
本人が大丈夫と言っているのだから、
きっと大丈夫なのだろう。
さくらはスマートフォンを鞄へしまった。
窓の外を見る。
まだ何かをしてあげようとは思わなかった。
ただ。
明日も同じだったら、
少しだけ気にしてみよう。
それくらいだった。
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