第7章 夕立
第28話 残響
涼子がいなくなってから、数日が経った。
さくらは出社すると
いつものようにパソコンを立ち上げた。
メールを確認する。
共有フォルダを開く。
今日の予定を見る。
以前と変わらない朝。
ただ。
少し離れたところにある席だけが、まだ妙に目についた。
誰も座っていない机。
綺麗に片づけられた引き出し。
モニターの消えた黒い画面。
そこに人がいないというだけで、
部屋が少し広くなったように感じた。
「おはようございます。」
声がして振り返る。
さくやだった。
「おはよう。」
「今日、早いですね。」
「ちょっとだけ。」
さくやは自分の席へ向かう。
その途中。
一瞬だけ、空いた席に目を向けた。
人が一人いなくなれば、
その人がしていた仕事も消える。
そんなことはない。
備品の確認。
資料の更新。
細かな連絡。
誰かがやらなければならない仕事は、
残った人間のところへ少しずつ散っていく。
「これ、誰か今日中に確認できる?」
主任が資料を手に尋ねた。
一瞬、誰も答えなかった。
さくらは画面から目を離す。
以前なら、誰かが答えるのを待っていた。
自分にできるのか。
間違えたらどうしよう。
そんなことを先に考えていた。
けれど。
「私、やります。」
自分でも驚くくらい、
自然に言葉が出た。
主任がさくらを見る。
「いける?」
「はい。前にも一度やったことあるので。」
「じゃあ、お願い。」
「分かりました。」
資料を受け取る。
それだけのことだった。
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午後。
頼まれた確認を終えて、
さくらは主任の机へ資料を置いた。
「終わりました。」
「もう?」
主任が画面から顔を上げる。
「はい。一応、前回のデータとも照らし合わせてあります。」
「ありがとう。」
主任は資料をめくる。
少し確認してから、
「ああ、大丈夫そうだね。」
と言った。
「最近、本当に助かってるよ。」
さくらは一瞬、返事が遅れた。
「……本当ですか?」
「うん。」
主任は何でもないことのように答える。
「前より自分から動いてくれるようになったし。」
「……ありがとうございます。」
胸の奥が、
少しだけ温かくなった。
以前は、
自分が何かをすると、
間違っていないかが気になった。
誰かの邪魔になっていないか。
余計なことをしていないか。
そんなことばかり考えていた。
でも。
今は違う。
自分から気づいて。
自分から動いて。
それで、
誰かが助かる。
そのことが、
少し嬉しかった。
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夕方。
「咲夜君、ちょっといい?」
別の社員が声をかける。
「はい。」
さくやが立ち上がった。
少しして戻ってくる。
席に座る。
「咲夜君。」
今度は主任だった。
「はい。」
また立ち上がる。
話を聞く。
頷く。
自分の席へ戻る。
数分後。
「すみません、咲夜さん。」
別の声。
さくやは顔を上げた。
「はい。どうしました?」
いつもの声だった。
いつもの笑顔だった。
少し話を聞いて、
「分かりました。」
と答える。
相手が離れていく。
さくやは画面へ戻った。
キーボードに手を置く。
そして。
ほんの一瞬だけ、
その手が止まった。
「……ふぅ。」
小さく息を吐く。
誰かに聞かせるようなものではなかった。
すぐに画面へ向き直り、
またキーボードを打ち始める。
さくらは、
その横顔を見ていた。
少しだけ気になった。
誰だって、
ため息くらいつく。
それだけのことだと思った。
しばらくして、
さくやが立ち上がった。
「主任、この資料なんですけど――」
また誰かと話している。
いつも通りだった。
笑っている。
頼まれたことに答えている。
何も変わっていない。
だから、
さくらも自分の仕事へ戻った。
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終業時間を少し過ぎた頃。
さくらは帰る準備をしていた。
鞄を持ち、
席を立つ。
「お疲れさまです。」
「お疲れさまです。」
さくやはまだパソコンに向かっていた。
「まだ帰らないの?」
「これだけ終わらせてから帰ります。」
「そっか。」
「そんなにかからないですよ。」
さくやは笑った。
いつもの笑顔だった。
「じゃあ、お先に。」
「はい。お疲れさまでした。」
さくらは歩き出す。
数歩進んで、
少しだけ振り返った。
さくやは、
もう画面を見ていた。
その横顔を見て、
昼間のことを思い出す。
ほんの一瞬、
止まった手。
小さなため息。
でも。
それだけだった。
さくらは前を向いた。
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帰りの電車。
窓に自分の顔が映っていた。
主任に言われた言葉を思い出す。
最近、本当に助かってるよ。
少しだけ、
嬉しくなる。
以前の自分なら、
きっと今日の仕事も、
誰かがやってくれるのを待っていた。
でも今日は違った。
自分で気づいて、
自分で動けた。
そして、
ちゃんと役に立てた。
それでいい。
これからも、
できることは自分からやればいい。
誰かが困っているなら、
気づいた人が動けばいい。
電車が揺れる。
窓の向こうに、
夜の街が流れていく。
その景色を見ながら、
ふと。
まだ会社に残っているさくやの姿が浮かんだ。
何度も呼ばれて
そのたびに、
「はい」と答えていた。
そして、
誰も見ていないところで、
小さく息を吐いていた。
「……忙しそうだな。」
さくらは小さく呟いた。
それ以上は、
考えなかった。
まだ、考える理由もなかった。
ただ。
主任からもらった言葉と、
さくやの小さなため息。
その二つだけが、
帰り道のさくらの中に、
静かに残っていた。
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