第19話 境界
六月下旬。
雨は降ったり止んだりを繰り返していた。
朝礼を終え、それぞれがデスクへ戻る。
「今日の現場、機材追加になったから。」
主任がホワイトボードを書き換える。
「映像班は三十分早く出発。」
「了解です。」
部署全体が慌ただしく動き始めた。
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さくらは現場資料を受け取り、内容を確認する。
その横では、さくやがラックケースのチェックをしていた。
「HDMI変換、2本…」
「SDIケーブル…」
「分配器…」
「スイッチャー…」
いつものように指差し確認をしながらケースへ収納していく。
その姿を見て、さくらは何気なく視線を向けた。
そして、小さく足を止める。
ラックの端。
予備の変換アダプターを入れるスペースが空いていた。
「……。」
以前、現場で担当者が変換アダプターを忘れ、
開演直前まで探し回ったことがあった。
幸い予備があり、大事には至らなかった。
けれど、あの日の慌ただしさは今でも覚えている。
さくらは倉庫へ向かった。
棚から新品のアダプターを一つ取り出す。
ラックケースの所定のポケットへ入れる。
それだけだった。
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現場へ向かう車内。
担当者が機材リストを見ながら声を上げる。
「あれ?」
「予備アダプター入ってる。」
「追加したっけ?」
さくやがケースを覗き込む。
「……入ってますね。」
主任も確認する。
「最近、予備がちゃんと揃ってる。」
「誰か補充してくれてるんだろ。」
その一言で話は終わった。
誰も深く考えない。
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本番は予定どおり終了した。
撤収も順調だった。
帰り際。
担当者が笑う。
「今日も助かりましたね。」
「最近ほんと、忘れ物なくなったなぁ。」
「ありがたいですよ。」
その会話を聞きながら、さくらは静かに歩いていた。
誰も困らなかった。
それでいい。
今日は、それだけで十分だった。
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会社へ戻る。
片付けを終えた頃には、外はもう暗くなっていた。
部署には数人だけが残っている。
さくらは翌日の現場資料を棚へ戻し、ふと足を止めた。
さくやのデスク。
椅子が少しだけ引かれたままになっている。
机の上には、書きかけのメモ。
ペンのキャップが外れたまま置かれていた。
「……。」
キャップを閉める。
ペンを転がらないようにメモの横へ置く。
それだけだった。
それ以上、机には触れない。
引き出しも開けない。
書類も動かさない。
「これで大丈夫。」
小さく呟く。
その時だった。
「……さくらさん?」
後ろから声がした。
振り返ると涼子がいた。
コピー用紙の束を抱え、不思議そうな顔をしている。
「まだ帰ってなかったんですね。」
「うん。」
さくらは自然に笑う。
「ペン、落ちそうだったから。」
「ああ。」
涼子も机を見る。
「ほんまや。」
「転がったら面倒ですもんね。」
そう言って笑った。
それだけだった。
さくらも笑い返す。
二人はそのまま並んで部署を出る。
雨はもう止んでいた。
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駅へ向かう帰り道。
涼子は何気なく思い返していた。
ペンを戻すくらいなら、別におかしなことではない。
そう、自分でも思う。
でも。
なぜだろう。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚だけが残っていた。
理由は分からない。
本当に、分からない。
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