第4章 分水嶺

第13話 試練

五月の終わり。

雨の日は少なくなり、朝の空気には初夏の匂いが混じり始めていた。


この日の現場は、都内のイベントホール。


各部署が早朝から搬入を進めている。


「おはようございます!」


元気な声がホールに響く。


「おはようございます!」


振り向くと、涼子が大きなキャリーケースを引きながら歩いてきた。

「今日も荷物多いですねぇ。」


「機材増えたからなぁ。」


そう笑いながらケースを押していると、奥からさくやが姿を見せた。


「おはようございます。」


「咲夜さん、おはようございます!」


「今日も早いですねぇ。」


「馬場さんこそやないですか。」

自然と関西弁が返る。


「あはは、また出ましたね。」


「つられるんですよ。」


「ほな今日は一日関西弁でいきます?」


「主任に怒られますって。」



二人が笑う。



近くでケーブルを束ねていた照明スタッフも吹き出した。

「また関西コンビ始まった。」


「朝から漫才だな!」


「違いますよ!」


「ほんまに!」


また笑いが起こる。

現場の空気が少しだけ柔らかくなる。

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その少し離れた場所で、さくらはチェックリストを片手に機材番号を確認していた。


モニター。

スイッチャー。

コンバーター。

分配器。


番号を照らし合わせ、一つずつ印を付けていく。


「……よし。」


小さく息を吐く。


そのときだった。



「橘さん。」


主任が後ろから声を掛ける。


「はい。」


「今日の映像系統、昨日と構成が少し変わってる。」


「新しい系統図、確認した?」


「……はい。」


そう答えながらも、胸の奥が少しだけざわついた。



昨日、確かに資料には目を通した。

けれど、細かな変更点までは覚え切れていない気がする。


「分からないことがあったら、すぐ聞いて。」


主任の口調は穏やかだった。


「本番は待ってくれないから。」


「はい。」


主任は頷き、別のスタッフのもとへ向かっていく。


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搬入が始まる。


それぞれが持ち場へ散っていく。


「咲夜さん、このラックお願いできます?」


「了解です。」


「馬場さん、モニターお願い。」


「はい!」


息の合った返事が飛び交う。

さくらも深呼吸を一つして、自分の持ち場へ向かった。


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機材を設置しながら、さくらは何度もチェックリストを見返す。


「入力一系統……」

「出力二系統……」

「電源確認……」


指で項目をなぞりながら、小さく確認を重ねる。


それでも、不安は消えなかった。


現場に復帰してしばらく経っても、この「本番前」の空気だけは慣れない。


失敗したくない。


迷惑を掛けたくない。


そう思えば思うほど、手順を何度も見返してしまう。


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「さくらさん。」

ふいに横から声がした。


振り向くと、さくやがケーブルを抱えて立っている。


「こっち終わりました。」


「何か手伝えることあります?」


「え……。」


少しだけ考えたあと、さくらは首を横に振った。

「ありがとう。」

「でも、大丈夫。」


「そうですか。」


さくやは笑って頷く。

「じゃあ、何かあったら呼んでください。」


それだけ言って、別の持ち場へ戻っていった。


さくらは、その背中を見送る。


「……優しいな。」

思わず心の中でつぶやく。


すぐに首を振った。


違う。

今は仕事に集中しなければ。


チェックリストを持ち直し、再び機材へ目を向ける。


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ホールの時計が、本番開始まであと三十分を示していた。


スタッフ全員の動きが、少しだけ速くなる。


主任が全体を見渡しながら声を上げる。

「各セクション、最終確認!」


「五分後に全系統チェック入ります!」


現場の空気が、一段階張り詰めた。


さくらは深く息を吸い込み、もう一度だけチェックリストへ目を落とす。



「大丈夫。」



小さく自分へ言い聞かせる。

しかし、その胸の奥にある小さな不安だけは、最後まで消えることはなかった。

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