第3話 優しさ

昼休みを知らせるチャイムが鳴ると、副調整室の空気が少しだけ緩んだ。

モニターを見続けていた目を休めるように、それぞれが席を立っていく。


「昼、行こうか。」


「今日はラーメンだな。」


「いや、社員食堂でいいでしょ。」


そんな声が飛び交う中、さくらは運行表をもう一度見返していた。


赤ペンで書き込まれた修正点。

付箋に書かれたメモ。

念のため、もう一度確認しておきたかった。



「橘さん。」


背後から主任が声を掛ける。

「午前の資料なんだけど、チェック終わった?」


「あ、はい。もう少しで……。」


主任は机の上の書類を見ると、小さく頷いた。

「急がなくていいから、午後までにお願い。」


「はい。すみません。」


そのまま主任は別の席へ向かう。

「さくや君。」


「はい。」


「午後の送出、一緒に確認してもらっていい?」


「了解です。」


「助かる。」



短いやり取りだった。


誰も責めてはいない。

ただ、自然と仕事が割り振られていく。

さくらは書類へ視線を戻した。


――もう少し早くできたら。


その言葉を胸の中だけで呟く。

________________________________________

社員食堂は昼時らしい賑わいだった。

窓際の席では営業部が笑い合い、奥のテーブルでは制作スタッフが次の収録の話をしている。


さくらはカレーライスのトレーを持ったまま、空いている席を探した。



「さくらさん!」



名前を呼ばれ、思わず振り向く。

けれど、その声は別の部署の先輩を呼んだものだった。

少し照れ笑いを浮かべながら、窓際の一人席へ腰を下ろす。


一人で食べることには慣れている。

嫌いではない。

そう、自分に言い聞かせるようにスプーンを手に取った。



「ここ、いいですか?」


聞き慣れた声だった。

顔を上げると、トレーを持ったさくやが立っている。


「もちろん。」


「ありがとうございます。」


向かいへ腰を下ろすと、ブラックコーヒーの紙カップをテーブルへ置いた。


「またコーヒー?」


「毎日飲んでいます。」


「好きなんです。」


「苦くない?」


「最初は苦かったですよ。」


笑いながら蓋を開ける。

「でも、いつの間にか慣れました。」


さくらは小さく笑う。

「私は無理かな。」



カレーの横へ置かれたスティックシュガーを二本手に取る。


「そんなに入れるんですか?」


「入れないと飲めないの。」


「甘党なんですね。」


「子どもっぽい?」


「いえ。」



さくやは首を横に振った。

「そういうところ、人それぞれですから。」




その言葉が、なぜだか嬉しかった。

________________________________________

しばらく他愛もない話が続く。

今度の収録のこと。

編集室の新しいモニターのこと。

社内で評判の唐揚げ定食のこと。

特別な会話は、一つもない。


けれど、不思議と沈黙が気まずくならなかった。


「そういえば。」


さくやが箸を止める。

「昨日、営業の人が言ってました。」


「うん?」


「さくらさん、書類すごく丁寧だって。」


「え?」


思わず聞き返す。

「確認しやすいって。」

「そんなこと……。」


「僕も思います。」

少し照れくさそうに笑う。


「早い人はたくさんいますけど、あそこまで細かく見てくれる人、なかなかいません。」


さくらは返事ができなかった。


いつも、自分は仕事が遅いと思っていた。

周りも、そう思っていると思っていた。


だから、その一言は意外だった。

「……ありがとう。」


ようやく、それだけ言えた。

さくやは何でもないことのように頷き、カレーを一口運ぶ。


その横顔を見ながら、さくらは思う。


――この人は、人のいいところを見つけるのが上手なんだ。

だから、みんなに好かれるのだろう。


そして、その優しさはきっと、誰に対しても変わらない。


それなのに。


ほんの少しだけ。


その「ありがとう」が、自分だけに向けられた特別な言葉だったらいいのに、

と願ってしまった。

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