第14話 カクヨムの奇跡
あれから一週間が経った。
蒼石の小説『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』は、カクヨムの週間ランキングで1位を獲得していた。アクセス数は十万を超え、コメント欄には毎日数百件の感想が寄せられている。
『この小説、涙が止まらなかった。ヒロインがすごくリアルで、作者の愛情が伝わってくる。』
『私はこのヒロインに共感した。誰かに「綺麗」って言ってほしい気持ち、すごく分かる。』
『作者さん、続きを書いてください。この物語の結末が知りたいです。』
蒼石は山陰の小さな旅館で、その反響を静かに見つめていた。彼はコメント欄を一つ一つ読みながら、自分が書いた言葉が誰かの心に届いていることを、ようやく実感していた。
(……俺の言葉が、届いている。)
彼はそれまで、自分の文章は由貴にしか向けていなかった。由貴のためだけに書き、由貴だけに読まれることを前提にしていた。しかし今、その言葉は予想外の場所で、予想外の人々に届いている。
蒼石は新しい原稿用紙にペンを走らせた。それは、小説の続きだった。ヒロインが主人公のもとを去る場面から、彼女が自分の本当の気持ちに気づくまでの物語を、彼は書き綴っていく。
その時、彼のスマホが震えた。見知らぬ番号からだった。
「……もしもし」
「もしもし、橘蒼石様でしょうか? 大手出版社『文芸社』の編集者、河野と申します。突然のご連絡、失礼いたします。」
蒼石はその言葉に、少しだけ戸惑った。
「……何の用件でしょうか」
「カクヨムで公開されている『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』を読ませていただきました。非常に感動いたしました。ぜひ、書籍化のお話をさせていただけませんか?」
蒼石はその申し出に、しばらく言葉を失った。彼は自分の小説が誰かに評価されるとは思っていなかった。ましてや、書籍化のオファーが来るとは、夢にも思わなかった。
「……考えさせてください」
「もちろんです。お時間は十分にございます。また改めてご連絡いたします。」
電話が切れた後、蒼石はしばらくその場に立ち尽くしていた。彼の手には、まだ温かいスマホが握られている。
(……書籍化? 俺の小説が?)
彼はその現実を、なかなか受け入れられなかった。しかし、コメント欄に寄せられる読者の声を思い出し、ようやくそれが現実であることを理解した。
その夜、蒼石は由貴に宛てて、一つの手紙を書いた。
『由貴へ。俺の言葉が、少しだけ誰かに届いた。それは、お前がいたからだ。お前という存在が、俺に言葉を与えた。ありがとう。蒼石』
彼はその手紙を、送り先も決めずに引き出しにしまった。
一方、東京では由貴が蒼石の小説を読み終えていた。彼女は一週間かけて、彼の全ての文章を読み尽くした。そこには、彼が由貴を見て感じていた全てのことが、細かく綴られていた。
由貴の朝の寝ぼけた顔。
由貴が緊張して左耳の後ろを触る癖。
由貴が本当に笑うときの口角の動き。
由貴が涙を流すときの、目の縁の赤み。
由貴が「綺麗」と言われて嬉しそうにする、少し寂しげな横顔。
全てが、蒼石の目を通して、言葉になっていた。
(……彼は、こんなにも私を見ていたんだ。)
由貴はそのことに、涙が止まらなかった。彼女はすぐにスマホを取り出し、蒼石にメッセージを送ろうとした。しかし、送信ボタンを押す前に、彼女は手を止めた。
(……彼は、今どこにいるんだろう?)
彼女は蒼石のカクヨムのアカウントを開き、彼のプロフィールを確認した。そこには、何も書かれていない。ただ、『山陰在住』という一文だけが、小さく表示されていた。
(……山陰? 彼の故郷は、確か島根県だったはず……)
由貴はすぐにスマホで列車の予約を調べ始めた。彼女はもう迷わなかった。蒼石の言葉が、彼女の背中を押している。
「……私も、彼に会いに行く。今度は、私が彼の言葉を届ける番だ。」
その時、由貴のスマホに涼太からのメッセージが届いた。彼は一週間前の由貴の返信を無視して、再び連絡を取ってきていた。
『由貴ちゃん、最後に一つだけ言わせてほしい。君は、蒼石くんの小説を読んだんだろう? あれは、君を『商品』にしなかった代わりに、君を『作品』にしただけだ。同じことだよ。』
由貴はそのメッセージを読み、怒りが込み上げてきた。しかし、彼女は冷静に返信を打った。
『違います。彼は私を『作品』にしたんじゃない。彼は私を『言葉』にしたんです。それは、私が生きている証です。あなたには、決して理解できないでしょう。』
送信ボタンを押すと、由貴はすぐにスマホを置き、荷造りを始めた。彼女が持っていくものは、最低限だけ。蒼石のカメラと、彼が残したノート。そして、彼の小説が印刷されたプリントアウト。
「……これで、全部だ。」
由貴はバッグを肩にかけ、玄関に向かった。ドアを開けると、外は快晴だった。彼女は深く息を吸い込み、一歩を踏み出した。
その頃、山陰の小さな旅館で、蒼石は編集者からの連絡を待っていた。彼は新たな小説の構想を練りながら、ふと思い出したように、由貴の顔を思い浮かべた。
(……由貴は、今ごろ何をしているんだろう。)
彼はその考えを振り払うように、ペンを走らせた。しかし、彼の心はまだ、由貴という存在に縛られていた。
その夜、蒼石は旅館の窓から、月を見上げていた。山陰の空気は冷たく、星がよく見える。彼はその星空を見ながら、静かに呟いた。
「……由貴、お前は、今どこにいるんだ。」
その声は、誰にも届かなかった。しかし、それから数時間後、由貴はその旅館の前に立っていた。
彼女は深夜の列車に乗り、山陰の小さな町まで来ていた。旅館の明かりが、一つだけ灯っている。彼女はその明かりに向かって、ゆっくりと歩いていった。
(……蒼石、待っていて。今、私があなたの言葉を届けに行くから。)
由貴は旅館のドアをノックした。しばらくして、中から足音が聞こえる。そして、ドアが開いた。
そこには、蒼石が立っていた。
彼は由貴を見て、一瞬息を呑んだ。その目は、驚きと、そして少しだけ安堵の色を帯びていた。
「……由貴」
「……ただいま、蒼石」
由貴はそう言って、涙を浮かべながら笑った。蒼石は何も言わず、ただ彼女を部屋に招き入れた。
その夜、二人は久しぶりに向き合って座った。由貴は蒼石に、全てを話した。涼太の会社のデータを見たこと、彼の小説を読んだこと、そして自分の気持ちに気づいたこと。
「……蒼石、私は、あなたの言葉が一番届いていたんだ。今、ようやく分かった。」
蒼石はそれを聞きながら、静かにうなずいた。
「……遅かったな」
「……うん。ごめん。」
「……でも、来てくれた。それで、十分だ。」
由貴はその言葉に、再び涙が溢れた。彼女は蒼石の手を握り、もう二度と離さないと心に誓った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます