第13話 去り際の決意
蒼石が去ってから三日が経った。
由貴はその間、ほとんど部屋から出なかった。蒼石のカメラを抱え、彼が撮った写真を見返しては、涙を流す日々。食事もろくに取らず、鏡すら見ることができなかった。
(……私、何をやっているんだろう。)
由貴はベッドの上で、蒼石の最後のメモを何度も読み返していた。
『お前の『綺麗』は、俺だけが知っている。それでいい。』
その言葉は、由貴の心に深く染み込んでいた。彼は「綺麗」と言わなかった。でも、その言葉は、由貴がこれまでに聞いたどんな「綺麗」よりも、確かに彼女の存在を認めていた。
(……彼は、私の『綺麗』を、ずっと知っていたんだ。)
由貴はそのことに、ようやく気づいた。そして、自分がどれだけ彼の言葉をないがしろにしてきたかを、痛感した。
その日、由貴は久しぶりに蒼石の部屋に入った。彼の机の上には、原稿用紙が何枚か置いてある。その一枚に、彼の走り書きがあった。
『由貴へ。お前が笑顔でいられるなら、それでいい。俺は、お前の隣にいなくても、お前を書き続ける。それが、俺の生きる意味だ。』
由貴はその文章を読み、また涙が溢れた。彼女は机の引き出しを開けようとして、ふと手を止めた。そこには、一つの封筒が入っている。以前、蒼石が見せたあの封筒だ。涼太の会社の過去の契約者に関するデータが入っているものだった。
由貴はそれを手に取り、しばらく見つめていた。前回は、信じる気になれなかった。でも今の自分には、それを開ける勇気があった。
彼女は封筒を開け、中身を取り出した。
そこには、涼太の会社「響プロモーション」が過去に契約した七人のインフルエンサーのリストがあった。それぞれの契約期間と、契約終了後の経緯が詳細に記されている。
一人目。契約後、半年で解約。その後、精神的不調を訴え、SNSを休止。
二人目。契約後、八ヶ月で解約。フォロワーは増えたが、本人は「燃え尽きた」と発言。
三人目。契約後、一年で解約。現在はインフルエンサーを引退し、一般人として生活している。
由貴はそのリストを読み進めるうちに、自分の手が震えていることに気づいた。彼女たちの共通点は、涼太の会社と契約した後に、誰もが「使い潰された」ということだった。
(……蒼石は、これを知っていたんだ。そして、私に伝えようとしていた。でも、私は……)
由貴はそのデータを握りしめ、声を上げて泣いた。彼女は、蒼石の言葉を信じなかった。彼の懸念を、嫉妬だと決めつけた。その結果、彼は何も言えずに、去らざるを得なかったのだ。
「……ごめん、蒼石。ごめんなさい……!」
由貴はその場に崩れ落ち、しばらく泣き続けた。
その頃、蒼石は山陰の小さな町にいた。彼は古い旅館に泊まり、日がな一日、原稿と向き合っていた。あの日、カクヨムに投稿した小説は、まだ読者がほとんどいない。アクセス数は一桁だ。
(……これでいい。誰にも読まれなくていい。これは、俺だけの言葉だ。)
蒼石はそう思いながら、新しい原稿を書き続けた。彼は、由貴の「素の一瞬」を、言葉に変えていく。由貴が朝起きて最初に右目をこするとき、緊張して左耳の後ろを触るとき、本当に笑うと口角が右側だけ上がるとき――すべてを、一文一文に刻み込んでいく。
しかし、その頃、東京では異変が起きていた。蒼石がカクヨムに投稿した小説『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』が、少しずつ話題になり始めていたのだ。
きっかけは、一人の読者のツイートだった。
『この小説のヒロイン、描写が異常にリアルで生々しい。泣きぼくろとか左耳の後ろを触る癖とか、実在するモデルがいるのでは?』
そのツイートが拡散され、小説のアクセス数が急増した。読者たちは、ヒロインの細かな描写に驚き、そしてそのリアリティに魅了されていった。
『朝起きて右目をこする癖って、自分のことかと思った。作者、すごく観察力あるよ。』
『左耳の後ろを触る癖、私もやる! モデルがいるなら会いたい!』
『このヒロイン、絶対に実在する。作者の愛情が溢れてる。』
蒼石はその話題が広がっていることを、まだ知らなかった。彼は山陰の小さな旅館で、ただ一つのことに集中していた。由貴という存在を、言葉にすることに。
そして、その夜。蒼石の小説は、カクヨムの週間ランキングに初めてランクインした。五十位。小さな数字だったが、それまでランク外だったことを思えば、驚くべき急成長だった。
その数字は、翌日には三十位に。そして、その翌日には十五位にまで上昇していた。
一方、由貴は蒼石の部屋で、彼が残した全てのものを見つめていた。机の上の原稿用紙、壁に貼られた写真、そしてカメラ。どれもが、彼の愛情の証だった。
由貴はカメラを手に取り、最後の一枚を確認した。それは、蒼石が去る前に撮ったあの写真だ。由貴がリビングに立ち、彼のレンズを見つめている。その顔は、どこか寂しげで、でもどこか安心しているようにも見えた。
(……この時、彼はもう決めてたんだ。私のもとを去ることを。)
由貴はその写真を見つめながら、静かに呟いた。
「……蒼石、あなたは今、どこにいるの?」
その時、由貴のスマホが震えた。涼太からのDMだった。
『由貴ちゃん、大丈夫? 最近、元気がないって聞いたけど。何かあったら、俺が力になるよ。』
由貴はそのメッセージを見て、手にしていた封筒のデータを思い出した。涼太は、彼女のことを「商品」として見ている。蒼石が去った今、彼は由貴を再び囲い込もうとしている。
由貴はそのDMを開き、返信を打ち始めた。
『涼太さん、あなたの会社の過去の契約者について知りました。私は、あなたの商品にはなりません。もう二度と、連絡しないでください。』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。しかし、涼太からの返信はなかった。
由貴はスマホを置き、蒼石のカメラを抱きしめた。そして、彼女は一つの決断をした。
(……私も、蒼石を追いかけよう。彼が書いた小説を探して、彼の言葉を読むんだ。)
彼女はスマホを開き、カクヨムのアプリを起動した。検索窓に、蒼石の小説のタイトルを打ち込む。
『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』
検索結果が表示される。そこには、確かに蒼石の小説があった。アクセス数は既に一万を超えている。由貴はそれを開き、最初の一文を読んだ。
『彼女はいつも、誰かに「綺麗」と言ってほしいと願っている。しかし、本当に彼女を綺麗にしているのは、彼女自身のその願いそのものだ。』
由貴はその文章を読み、涙が止まらなくなった。
(……これが、蒼石の言葉。彼が、私に伝えたかったこと。)
彼女はそのまま、夜が明けるまで、蒼石の小説を読み続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます