第15話 バレた正体
山陰の夜は、思っていたよりも静かだった。
由貴は蒼石の部屋で、久しぶりに向かい合って座っていた。彼女の手には、蒼石が残したカメラが握られている。彼はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……それ、持ってきたのか」
「うん。あなたが残していったものだから、大事にしたくて」
「……そうか」
蒼石はそう言って、湯飲みを二つ用意した。ほうじ茶の香りが、部屋に広がる。由貴はその香りを嗅いで、なぜか安心した。
「……蒼石、私はね、あなたの小説を読んだんだ」
「……そうか」
「全部読んだよ。あなたが書いた、私のこと。朝の寝ぼけた顔も、緊張して左耳の後ろを触る癖も、本当に笑うと口角が右だけ上がることまで――全部、あなたの目を通して見たんだ」
蒼石は何も言わず、由貴の話を聞いていた。彼の表情は相変わらず無表情だが、その瞳は少しだけ揺れているように見えた。
「……私、今まで気づかなかった。あなたが、こんなにも私を見ていてくれたなんて。私はずっと、あなたに『綺麗』って言ってほしいって思ってた。でも、それよりも大事なことがあったんだって、今やっと分かった」
「……何が?」
「……あなたが、私を『言葉』にしようとしてくれていたこと」
由貴はそう言って、蒼石の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、私を『綺麗』って一言で済ませなかった。ずっとずっと、細かいところまで見て、言葉にしてくれた。それが、私が求めていたものだったんだ」
蒼石はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「……由貴は、俺にとって、唯一の言葉だ。それは、今も変わらない」
由貴はその言葉に、涙がこぼれ落ちた。彼女はそれを拭うこともせず、蒼石の手を握った。
「……私も、あなたの言葉になりたい。あなたが書くものの、一番近くにいたい」
「……それは、大変だぞ」
「……知ってる」
二人は初めて、笑い合った。蒼石の口元が、ほんの少しだけ上がる。由貴はその姿を見て、心から嬉しくなった。
翌朝。由貴が目を覚ますと、蒼石は既に起きていた。彼は机に向かって、新しい原稿を書き始めている。由貴はその背中を見ながら、静かに微笑んだ。
(……この時間が、ずっと続けばいいのに。)
彼女はそう思いながら、スマホを手に取った。すると、画面には何百もの通知が表示されている。
「……え?」
由貴は慌てて通知を開いた。そこには、彼女のファンからのメッセージが殺到していた。
『由貴ちゃん、蒼石くんの小説のモデル、由貴ちゃんなんだって!? 読んだよ、めっちゃ感動した!』
『まさかあの小説のヒロインが由貴ちゃんだったなんて! 蒼石くんの愛情が溢れてるね!』
『由貴ちゃん、今どこにいるの? 蒼石くんと一緒にいるの? 教えて!』
由貴はそのコメントの数々に、言葉を失った。彼女は慌ててSNSを確認した。そこには、昨夜の自分の投稿が拡散されていた。彼女が山陰の旅館の前で撮った一枚の写真。それに添えたキャプションはたった一言。
『待っていた人に、やっと会えました。』
その投稿が、瞬く間に拡散されていたのだ。ファンたちは、由貴が誰に会いに行ったのかをすぐに察した。そして、蒼石の小説のモデルが由貴であることも、同時に明らかになった。
「……蒼石、大変だよ!」
由貴は慌てて蒼石のところに駆け寄った。彼はスマホを見せられて、少しだけ眉をひそめた。
「……どうやら、バレたようだな」
「バレたって……これ、どうなるの?」
「……さあな」
蒼石はそう言って、再び原稿用紙にペンを走らせ始めた。由貴はその態度に、少し呆れた。
「……あなた、全然慌ててないね」
「……慌てても、仕方ないだろ」
「……そうだけどさ」
由貴はそう言いながらも、なぜか心が落ち着いていた。彼女は蒼石の隣に座り、彼が書いている原稿を覗き込んだ。
『彼女は、自分の存在が誰かの言葉になることを、初めて知った。それは、彼女にとって、どんな「綺麗」よりも尊いものだった。』
由貴はその一文を読み、また涙が浮かんだ。
「……これ、私のこと?」
「……ああ」
「……ありがとう、蒼石」
その時、由貴のスマホが震えた。今度は、知らない番号からだった。彼女は少し迷ったが、出ることにした。
「もしもし、早乙女由貴様でしょうか? 大手出版社『文芸社』の編集者、河野と申します。突然のご連絡、失礼いたします。」
由貴はその言葉に、一瞬息を呑んだ。
「……はい、由貴です」
「橘蒼石様とお知り合いと伺いました。彼の小説の書籍化が決まりまして、ぜひ由貴様にもお話を伺いたいと思い、ご連絡いたしました。モデルは由貴様だと、SNSで話題になっておりますので……ご都合よろしいでしょうか?」
由貴は慌てて蒼石を見た。彼は相変わらず無表情で、ペンを走らせている。由貴はスマホを彼に差し出した。
「……蒼石、出版社の人だって。出てよ」
蒼石はゆっくりとペンを置き、スマホを受け取った。
「……もしもし、橘です」
彼は短い会話の後、スマホを置いた。そして、由貴に向き直って言った。
「……書籍化が決まった。それと、編集者が由貴にも会いたいと言っている」
「……私に?」
「……ああ。モデルとして、インタビューを受けてほしいそうだ」
由貴はその言葉に、少しだけ戸惑った。しかし、彼女はすぐにうなずいた。
「……分かった。やるよ」
「……いいのか?」
「……うん。あなたの言葉を、もっと多くの人に届けたいから」
蒼石はその言葉に、何も言わなかった。しかし、彼の口元が、ほんの少しだけ上がった。
その頃、東京では涼太がそのニュースを目にしていた。彼はスマホの画面を見つめながら、静かに笑った。
「……なるほど。彼女は彼を選んだか。面白い。」
涼太はそう言って、スマホを置いた。彼の表情には、悔しさも怒りもない。ただ、一つの興味だけがあった。
「……彼の小説、読んでみよう。何が彼女をそこまで動かしたのか、知りたいからな。」
その夜、由貴と蒼石は旅館の縁側に並んで座っていた。星がとても綺麗に見える。由貴はその星空を見上げながら、蒼石に話しかけた。
「……ねえ、蒼石」
「……何だ」
「……これから、どうするの?」
「……小説を書く。それだけだ」
「……じゃあ、私は何をすればいい?」
蒼石は少しの間沈黙した後、静かに言った。
「……由貴は、由貴のままでいろ。それでいい。」
由貴はその言葉に、笑った。彼はやっぱり「綺麗」とは言わない。でも、今の由貴にはそれで十分だった。
「……うん。私は、私のままでいるよ。そして、あなたの言葉を一番近くで聞いている」
蒼石は何も言わず、ただ由貴の隣に座り続けた。その距離は、以前よりも確かに近かった。
その夜、由貴は蒼石の肩に寄り添いながら、静かに眠りについた。蒼石は彼女の寝顔を見つめながら、新しい原稿用紙に一言だけ書き記した。
『彼女は、ついに自分の居場所を見つけた。それは、誰かの言葉の中ではなく、誰かの隣だった。』
そして、彼はその文章を、そっと引き出しにしまった。
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