第12話 最後のシャッター
翌朝、由貴が目を覚ますと、枕元に一枚のメモが置いてあった。
『今朝、最後に一枚撮らせてほしい。起きたら、リビングに来てくれ。蒼石』
由貴はそのメモを読み返しながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……最後の一枚?)
彼女は寝ぼけたままリビングに向かった。そこには、蒼石が一人で立っていた。彼はいつも通りの無表情だが、なぜか今日は、その背中が少しだけ小さく見えた。
「……起きたか」
「うん。『最後の一枚』って、どういう意味?」
「……今日で、カメラマンをやめる」
由貴はその言葉に、一瞬息を呑んだ。
「……やめる? どうして?」
「……もう、由貴を撮る必要がなくなったからだ」
「……何それ? 意味が分からないよ」
蒼石は何も答えず、カメラを構えた。そのレンズは、由貴に向けられている。
「……いつものように、そこに立っていてくれ」
由貴は言われるままに、リビングの中央に立った。蒼石はファインダーを覗き込み、ゆっくりとピントを合わせる。
「……今日は、何か特別なこと言うの?」
「……いや。ただ、由貴がそこに立っているだけでいい」
シャッター音が一度、部屋に響いた。蒼石はそれきり、カメラを下ろした。
「……終わった」
「……え、それだけ?」
「……ああ」
蒼石はカメラをしまい、由貴に向き直った。彼の目は、いつもより少しだけ優しく見えた。
「……由貴、今までありがとう」
「……何、それ。別れの挨拶みたいじゃん」
由貴は笑おうとしたが、うまくできなかった。彼女の中で、何かが確かに終わろうとしている予感があった。
「……俺は、しばらく旅に出る」
「……旅? どこに?」
「……決めていない。ただ、少し考える時間が欲しい」
由貴はその言葉に、声が出なくなった。
(……考える時間? 何を?)
彼女はそれを聞く勇気がなかった。代わりに、彼女はただうなずいた。
「……いつ帰ってくるの?」
「……分からない。でも、必ず戻る」
「……約束?」
「……ああ」
蒼石はそう言って、玄関に向かった。彼の手には、小さなバッグが一つ。それだけを持って、彼は行こうとしている。
「……蒼石」
由貴は、彼の背中に声をかけた。
「……何だ?」
「……最後に、一つだけ言ってくれる?」
「……何を?」
「……私のこと、綺麗?」
蒼石は一瞬だけ沈黙した。そして、彼は振り返らずに言った。
「……由貴は、いつだって美しい。それは、俺が一番よく知っている」
由貴はその言葉に、涙が溢れた。
「……それ、『綺麗』って言ってるのと同じじゃん」
「……そうかもしれない」
蒼石はそれだけ言って、玄関のドアを開けた。そして、彼は一歩外に出て、静かにドアを閉めた。
由貴はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。彼女の耳には、蒼石の最後の言葉が何度も何度も響いている。
(……『由貴は、いつだって美しい』……)
彼は、ついに「綺麗」とは言わなかった。でも、その言葉は、由貴が求めていたどの「綺麗」よりも重く、深かった。
由貴は蒼石の部屋に駆け込んだ。そこには、彼が置いていったカメラと、一枚のメモが残されていた。
『お前の『綺麗』は、俺だけが知っている。それでいい。蒼石』
由貴はそのメモを握りしめ、声を上げて泣いた。彼女はそのカメラを抱え、自分の部屋に戻った。
その夜、由貴は蒼石のカメラを開いた。そこには、彼が撮った無数の写真が保存されている。そのどれもが、由貴の「何気ない一瞬」だった。
寝ぼけた顔。おにぎりを食べているところ。スタジオでふと笑った横顔。雨の日に窓の外を見ている後ろ姿。そして、昨夜の泣き顔。
由貴はその写真を一枚一枚見ながら、彼がどれだけ自分を見ていたのかを、ようやく理解した。
(……彼は、私の『綺麗』を、ずっと撮り続けていたんだ。私が気づかないところで……)
由貴は、自分がこれまでに失ったものの大きさに、胸が締め付けられる思いだった。彼女はすぐにスマホを取り出し、蒼石にメッセージを送った。
『どこに行くの? 連絡して。』
既読はついた。しかし、返信は来なかった。
その時、由貴のスマホが震えた。涼太からのDMだった。
『由貴ちゃん、蒼石くんが去ったって聞いたよ。大丈夫? 何かあったら、いつでも連絡して。』
由貴はそのメッセージを読み、何も返さずにスマホを置いた。
――今は、それどころじゃない。
彼女は蒼石のカメラを抱え、ベッドに横たわった。その夜、由貴は一睡もできなかった。
一方、その頃。蒼石は深夜のインターネットカフェにいた。彼はカクヨムのアカウントを作成し、一つの小説を投稿しようとしていた。
タイトルは『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』。
彼はその小説を、誰にも知られずに公開した。最初の読者は、たったの五人。しかし、その五人の中に、後にこの小説を大ヒットさせる運命の読者がいることを、蒼石はまだ知らなかった。
彼は画面を見つめながら、静かに呟いた。
「……これでいい。これが、俺の最後の言葉だ」
その夜、蒼石は街灯の明かりが一つだけ灯る路地を、一人で歩いていった。彼の手には、カメラはもうなかった。代わりに、一冊のノートだけがあった。
そのノートの表紙には、『由貴観察日誌』という文字が書かれている。
彼はそのノートを胸に抱きしめ、夜の闇に消えていった。
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