第11話 伝えれば伝えるほど
あれから一週間が経った。
由貴は涼太からの連絡を全て無視していた。撮影のオファーも、食事の誘いも、何もかも。代わりに、彼女は蒼石のそばにいる時間を増やした。彼の部屋に転がり込み、彼が原稿を書く横でスマホをいじる。そんな日々が続いていた。
しかし、由貴の心の奥底には、まだ涼太の言葉が残っていた。
彼は君に『綺麗』と言わない。それは君を傷つけているんだ。
その言葉は、由貴の頭から離れなかった。確かに、蒼石は相変わらず「綺麗」とは言わない。彼は「いい顔だ」とか「そのままでいい」とか、そういう言葉ばかりだ。
由貴はその不満を、何度も飲み込んでいた。
その日、由貴は蒼石の部屋で、彼が撮った自分の写真を見ていた。涼太が撮った写真とは違う、何気ない表情。寝ぼけた顔、おにぎりを食べているところ、スタジオの片隅でくつろいでいるところ、どれも、由貴が自分で見せようと思って撮ったものではない。
「……蒼石、なんでいつもこんな写真を撮るの?」
「……由貴が一番自然な時だからだ」
「自然って、こんな寝ぼけた顔が?」
「……ああ」
蒼石はペンを止めずに答える。由貴はその返事に、少しだけイライラした。
「……涼太さんは、もっと綺麗に撮ってくれたよ。ちゃんと可愛く見えるように、光の当て方とかも考えて」
「……そうかもしれない」
「それで、それだけ? 何か言いたいことないの?」
蒼石はようやくペンを置き、由貴の方に向き直った。彼の目は、いつもより少しだけ深く見えた。
「……俺は、由貴が綺麗に見えるように撮っているわけじゃない」
「……じゃあ、何のために撮ってるの?」
「……由貴が、由貴であることを、撮っている」
由貴はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……それって、どういう意味?」
「……由貴が『綺麗』に見えるかどうかは、俺にとって二の次だ。由貴が『由貴』であることの方が、大事だ」
由貴はその言葉に、何かを言い返そうとして、やめた。彼の言っていることは、確かに優しい。でも、それは由貴が求めているものとは、少し違っていた。
(……私は、『由貴』であることよりも、『綺麗』だと言われたいのに。)
彼女はその思いを、心の奥底にしまい込んだ。
その夜、由貴が自分の部屋でスマホをチェックしていると、涼太から久しぶりのDMが届いていた。
『由貴ちゃん、元気? 俺はいつでも君を待ってるよ。蒼石くんが君に何を言ったか知らないけど、君はもっと自由になるべきだ。』
由貴はそのメッセージを読み、一瞬だけ迷った。しかし、彼女は返信せずにスマホを置いた。
もう、涼太さんとは関係を持たないと決めたのに。
そう思いながらも、彼女の心の片隅で、涼太の言葉がこだましていた。
翌日、由貴は蒼石に涼太のDMのことを話した。
「……蒼石、昨日、涼太さんからDMが来たんだ」
「……何て?」
「『君はもっと自由になるべきだ』って。……これ、どう思う?」
蒼石は少しの間沈黙した後、静かに言った。
「……由貴が、自由を求めているなら、それはそれでいい」
「……それだけ? 嫉妬しないの?」
「……嫉妬は、する」
由貴はその言葉に、少しだけ驚いた。蒼石が嫉妬すると言ったのは、初めてだった。
「……でも、由貴を縛ることはしない。それが、俺のやり方だ」
由貴はその言葉に、複雑な気持ちになった。彼は由貴を自由にしている。それは優しさかもしれない。でも、同時に……。
(……それって、私のこと、どうでもいいってことなのかな?)
由貴はその疑問を口にすることができなかった。
その日、由貴は久しぶりに一人で外出した。特に目的はなかったが、とにかく外の空気を吸いたかった。彼女は街をぶらぶらと歩きながら、自分が何を考えているのかを整理しようとした。
私は、何が欲しいんだろう?
蒼石の言葉。涼太の言葉。両方が頭の中で交錯する。彼女は自分でも、自分の気持ちが分からなくなっていた。
そのとき、由貴は偶然、涼太を見かけた。彼は街角のカフェで、スマホを見ながら何かを考えているようだった。由貴は反射的に、彼から遠ざかろうとした。しかし、涼太の方が先に彼女に気づいた。
「由貴ちゃん! 久しぶりだね!」
涼太はすぐに立ち上がり、由貴に近づいてきた。彼の笑顔は、相変わらず完璧だった。
「……お久しぶりです」
「元気だった? 連絡くれなかったから、心配してたんだよ」
「……すみません。ちょっと、考えることがあって」
「そう。由貴ちゃん、少し話さない? 最後に話した時より、君の目が変わった気がする」
由貴は迷った。しかし、彼の言葉に押されるように、カフェに入ってしまった。
席に着くと、涼太は真剣な表情で由貴を見つめた。
「由貴ちゃん、聞いてほしいことがあるんだ。蒼石くんのことだけど、彼は君に『綺麗』と言わない理由を、説明したか?」
「……説明は、されました。彼には彼の考えがあるって」
「彼の考えは、彼のエゴだ。君を『自分だけのもの』にしておきたいというエゴ。それを『愛情』と勘違いしているだけだ」
由貴はその言葉に、心臓が締め付けられるのを感じた。
「……違います。蒼石は、私のことをちゃんと見ています」
「見ているだけだ。彼は君に言葉を与えない。君を満たさない。それは愛情じゃない。ただの観察だ」
涼太の言葉は、由貴の心の奥深くに突き刺さった。
(……ただの観察?)
由貴はその言葉を、何度も反芻した。彼女は確かに、蒼石に「見られている」という実感を持っていた。しかし、それが観察と愛情の違いなのか、彼女には分からなかった。
「……もういいです。私、帰ります」
由貴は立ち上がり、その場を後にした。背中に涼太の視線を感じながら、彼女は早足で街を歩き続けた。
その夜、由貴は蒼石の部屋を訪れた。彼はいつも通り、原稿用紙にペンを走らせている。由貴は彼の背中に、静かに声をかけた。
「……蒼石、今日、涼太さんに会ったんだ」
蒼石は手を止めずに、「……そうか」とだけ言った。
「……彼に言われたよ。あなたは、私を『観察』しているだけで、愛情じゃないって」
蒼石はペンを置き、ゆっくりと振り返った。彼の目は、いつもより少しだけ鋭く見えた。
「……由貴は、そう思うか?」
「……分からない。あなたは、私に『綺麗』と言わない。涼太さんは言ってくれる。それだけの話だと思う」
「……それだけの話か」
蒼石の声は、どこか諦めを含んでいた。彼は机の引き出しを開け、一つの封筒を取り出した。
「……これを見てくれ」
由貴はその封筒を受け取り、中身を確認した。そこには、涼太の会社の過去の契約者に関するデータと、彼女たちが契約後に精神的に不調を訴えたという証拠がまとめられていた。
「……これ、何?」
「……涼太さんの会社の実態だ。彼は、君を『商品』として使い潰そうとしている。俺は、それを伝えたかった」
由貴はそのデータを一通り見たが、彼女の表情は硬いままだ。
「……これを、信じろって言うの?」
「……信じるかどうかは、由貴が決めることだ」
「でも、あなたはこれを私に見せて、涼太さんを信用するなと言いたいんでしょ!」
由貴の声が、次第に高くなっていく。
「……違う。俺はただ、由貴が知らないことを知らせたかっただけだ」
「知らないことを知らせるって、それって『お前は間違っている』って言ってるのと同じじゃないの! 何でいつも、あなたはそうやって私の選択を否定するの!?」
「……否定しているわけじゃない」
「否定してるよ! 涼太さんのことも、私のことも、全部否定してる!」
由貴は叫びながら、涙が溢れてきた。彼女はその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。
蒼石はその様子を見つめながら、何も言わなかった。ただ、彼の手元では、カメラのシャッターがそっと押されていた。
それは、由貴の「泣き顔」だった。
「……由貴、無理に笑わなくていい。泣きたい時は泣けばいい」
「……何言ってるのよ! 泣いてる時に撮るなんて、最低だ!」
「……それが、俺のやり方だ」
由貴はその言葉に、さらに涙が溢れた。彼女は立ち上がり、蒼石の部屋を飛び出した。
その夜、由貴は自分の部屋で、一晩中泣き続けた。そして、蒼石は隣の部屋で、彼女の泣き声を聞きながら、新しい原稿を書き続けていた。
彼の手元には、一つの封筒が置いてある。そこには、由貴に送るための手紙が書かれていた。
『由貴へ
お前が幸せになるなら、それでいい。俺は、お前の選択を否定しない。
ただ、お前が泣くときは、いつでも俺がそばにいる。
それが、俺の最後の言葉だ。』
蒼石はその手紙を封筒に入れ、机の上に置いた。そして、彼は静かに荷物をまとめ始めた。
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