第10話 彼の観察日記
あれから三日が経った。
由貴は涼太からの撮影オファーを全て断っていた。理由は「体調不良」。実際には体調は悪くなかった。ただ、自分が何をしたいのか、誰の言葉を信じればいいのか、それだけで頭がいっぱいだった。
スマホが震える。涼太からだった。
『由貴ちゃん、大丈夫?心配してるよ。返事がなくて寂しい。』
由貴はそのメッセージを何度も読み返したが、返信を打つ気にはなれなかった。代わりに、彼女は蒼石の部屋のドアをノックしていた。
「……入っていい?」
「……ああ」
蒼石は机に向かって、相変わらず原稿用紙にペンを走らせている。由貴はその背中を見ながら、自分の気持ちを整理しようとしたが、うまく言葉にできなかった。
「……蒼石、私、最近、自分が何をしたいのか分からなくなってきたの」
「……そうか」
「涼太さんは、私に『こうしろ』『ああしろ』って指示をくれる。それが正しいって信じてた。でも、あの配信の後、なんだか違う気がして……」
蒼石はペンを置き、振り返った。彼の目は静かで、由貴を真っ直ぐに見つめている。
「……由貴は、何をしたいんだ?」
「……それが分からないんだよ。『綺麗』って言われたいのか、数字が欲しいのか、それとも……」
由貴はそこで言葉を止めた。言いたいことは分かっている。でも、それを口にすると、何かが決定的になってしまう気がした。
「……それとも?」
「……誰かに、本当の自分を見てほしいのかもしれない」
蒼石はその言葉に、少しだけ目を細めた。そして、彼は机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。
「……これを見てみろ」
由貴はそのノートを受け取り、表紙を開いた。そこには、びっしりと文字が詰まっている。彼女の名前が、何度も何度も書かれていた。
『由貴が朝起きるとき、最初に右手で目をこする。そうすると左目の下のくまが強調される。』
『由貴が緊張すると、左耳の後ろを触る癖がある。本人は無意識だ。』
『由貴が本当に笑うとき、口角が右側だけ先に上がる。作り笑いのときは両方同時だ。』
由貴は息を呑んだ。そこには、自分が気づいていない自分の癖が、細かく書き綴られていた。彼女が誰かに見せるための「由貴」ではなく、誰も知らない「本当の由貴」が、そこにあった。
「……これ、何?」
「……観察日誌だ。由貴のことを、書いている」
「ずっと前から?」
「……幼い頃から」
由貴はその言葉に、言葉を失った。彼は、自分が生まれた時からずっと、由貴という存在を観察し続けていたのだ。そして、その観察を文字にすることで、彼は生きてきた。
「……なんで、こんなことしてるの?」
「……由貴を、忘れたくないからだ」
蒼石の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「……由貴は、いつか俺の前からいなくなるかもしれない。そのときに、由貴のことを覚えているために、書いている」
由貴はその言葉に、涙が浮かんだ。
(……彼は、私がいなくなることを前提に、私を覚えようとしている?)
彼女はノートを閉じ、蒼石の目を見た。彼の瞳には、何の迷いもない。彼はただ、自分の方法で由貴という存在を愛している。それだけだった。
「……蒼石、私は、あなたのことを……」
由貴が言いかけたとき、スマホが震えた。また涼太からだった。
『由貴ちゃん、明日の撮影、どうしても君に来てほしい。最後のチャンスだと思ってくれ。』
由貴はそのメッセージを見て、蒼石の顔を見た。蒼石は何も言わず、ただ静かにうなずいた。
「……行って来い」
「……でも」
「……由貴が自分で決めることだ。俺は、それを見守るだけだ」
由貴はその言葉に、心が締め付けられるのを感じた。彼はいつもそうだ。由貴の選択を、決して縛らない。それが優しさなのか、それとも諦めなのか、由貴には分からなかった。
その夜、由貴は涼太に「明日、行きます」と返信した。そして、彼女は蒼石のノートを、もう一度開いた。
そこには、最後のページに、新しい一文が書き加えられていた。
『由貴が誰かを選ぶ日、俺はそれを受け入れる。それが、俺の由貴に対する最後の観察になるだろう。』
由貴はその文を読みながら、何かを決意したように目を閉じた。
翌日、由貴は涼太との撮影に向かった。場所は、以前涼太が連れて行ったあの郊外の公園だった。木々に囲まれた池のほとりで、涼太はカメラを構えて待っていた。
「由貴ちゃん、来てくれてありがとう。君にどうしても伝えたいことがあるんだ」
涼太はカメラを下ろし、由貴の目を真っ直ぐに見つめた。
「由貴ちゃん、俺と一緒に仕事をしないか?蒼石くんはもう必要ない。君の写真も言葉も、全て俺が担当する。君を一番輝かせることができるのは、俺だけだ」
由貴はその言葉を聞きながら、自分の中で何かが固まるのを感じた。
「……涼太さん、私は、蒼石を選びます」
涼太の顔が、一瞬だけ固まった。
「……何?」
「私は、蒼石の言葉を選びます。彼は、私を『綺麗』とは言わない。でも、彼は私の全てを見ている。それで十分だと、今は思えます」
涼太はしばらく由貴を見つめていたが、やがて笑い声を上げた。
「……なるほど。君は彼に洗脳されているんだ。でもいいよ、君がそう言うなら、俺は引かない。彼が君を傷つける前に、必ず取り戻すから」
涼太はそう言って、カメラをしまい、その場を去っていった。由貴はその背中を見送りながら、自分が正しい選択をしたのか、確信は持てなかった。しかし、彼女の中で何かが確かに変わっていた。
その夜、由貴が帰宅すると、蒼石は珍しく玄関で待っていた。彼の手には、一冊の新しいノートがある。
「……これ、由貴に渡す」
由貴はそのノートを受け取り、表紙を開けた。そこには、『隣の姫君は今日も我儘で綺麗だ』というタイトルと、最初の一文が書かれていた。
『彼女はいつも、誰かに「綺麗」と言ってほしいと願っている。しかし、本当に彼女を綺麗にしているのは、彼女自身のその願いそのものだ。』
由貴はその文章を読みながら、涙がこぼれ落ちた。蒼石はそれを見て、何も言わなかった。ただ、彼女の頭をそっと撫でた。
「……蒼石、私はあなたのことを――」
「……言わなくていい」
蒼石は静かに言った。
「……由貴が答える時は、自分で決めた時だけでいい。俺は、それまで待っている」
由貴はその言葉に、もう一度涙を流した。彼女はノートを胸に抱きしめ、自分の部屋に戻った。
その夜、由貴は蒼石のノートを枕元に置いて、眠りについた。彼女のスマホには、涼太からの最後のメッセージが届いていた。
『君はいつか、俺の言っていることが正しいと分かる。その時は、いつでも来ていい。』
由貴はそのメッセージを読まずに、削除した。
――これでいい。私が選んだのは、この道だ。
彼女は目を閉じ、静かに息を吐いた。窓の外では、月が静かに輝いている。そして、隣の部屋では、蒼石が新しい原稿を書いている。彼のペンの音が、由貴の耳に優しく響いていた。
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