第5話 プロフェッショナルの言葉
涼太の提案で、由貴は彼の会社のオフィスを訪れていた。
六本木の高層ビル、二十二階。エレベーターを降りると、全面ガラス張りの洗練された空間が広がっている。受付には由貴の名前が書かれたプレートが置かれ、スタッフが笑顔で出迎えた。
「由貴様、こちらへどうぞ。響社長がお待ちです」
案内された会議室の壁には、由貴の過去の全投稿がプリントアウトされ、時系列に並べられていた。その数、実に五百枚以上。由貴は息を呑んだ。
「……これ、全部、私の投稿ですか?」
「そうだよ。デビュー当時から今まで、全ての投稿を分析したんだ」
涼太が入ってきた。スーツをビシッと決め、手には分厚いファイルを持っている。彼は由貴をソファに座らせると、ファイルを開いて説明を始めた。
「由貴ちゃんの強みは、なんと言ってもその『親近感』だ。非の打ちどころがない美人だけど、どこか近所にいそうな雰囲気がある。それでいて、たまに見せるプロフェッショナルな一面がギャップを生む。このバランスが、君の最大の武器だ」
涼太はデータを指でなぞりながら、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「でも弱点もある。それは『言葉』だ。君のキャプションは、抽象的すぎる。蒼石くんが書いているあれは、正直ビジネスとしてはナンセンス。
詩的で美しいけど、バズらない。バズらなければ、フォロワーは増えない。フォロワーが増えなければ、案件は来ない。単純な話だ」
由貴はその言葉に、小さくうなずいた。
「……そうですよね。私も、最近そう思ってました」
「そうだろう?だから俺が来たんだ。これからは、俺のチームが君の全ての投稿を管理する。
写真も、キャプションも、投稿時間も、全て計算し尽くす。そうすれば、今の三倍は数字が伸びる」
涼太はさらに、由貴のスマホに手を伸ばした。
「いいね?由貴ちゃん、これからは俺の言う通りに動いてくれればいい。君はただ、可愛く笑っていればいい。それだけで、君の価値は最大化される」
由貴は涼太の手から渡されたスマホを見つめながら、ふと違和感を覚えた。
(……ただ、可愛く笑っていればいい?)
その言葉は、どこか蒼石の「数字が全てじゃない」という言葉と、心の中でぶつかった。けれど由貴はそれをすぐに振り払った。涼太はプロだ。彼の言うことに間違いはない。
「……わかりました。お願いします」
「よし、決まりだね。それじゃあ、早速明日から新しいスケジュールを組むよ。蒼石くんには、後で俺から連絡しておく」
その夜、由貴が帰宅すると、蒼石は珍しく玄関で待っていた。
「……涼太さんから連絡があった」
「ああ、そう。新しい撮影スケジュールのこと?」
「……うん。俺の役割が『カメラマン』に変更されたと」
蒼石の声は、いつもより少し低く聞こえた。由貴は目をそらしながら言った。
「……そう。それでいいんだよ。涼太さんが言葉を担当するから、蒼石は撮影に集中して」
「……由貴は、それでいいのか?」
「いいも何も、これがベストなんだよ!数字が伸びるんだから!」
由貴は声を荒げてしまった。蒼石はその声に一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「……そうか。それなら、それでいい」
彼はそれだけ言うと、自分の部屋に戻ってドアを閉めた。由貴はその背中を見送りながら、自分の中に湧き上がるイライラを抑えられなかった。
(なんで、いつもそうなんだろう。私の決断を、いつも否定するように受け取るんだから……)
翌日、新しい体制での初めての撮影が行われた。スタジオには涼太のチームが十人以上集まり、由貴はその中央で次々と指示を受ける。
「由貴ちゃん、もっと左を向いて。そう、その角度。今、睫毛がきれいに見えてるよ」
「次は座って、目線は少し下。可愛い感じで」
「はい、次は立って。右足を少し前に出して」
涼太の指示は明確で、無駄がなかった。由貴はそれに従うだけで、どんどん美しい写真が撮れていく。スタッフたちは「さすが響社長」「由貴様、最高です」と称賛の声を上げる。
その間、蒼石はスタジオの隅で、淡々とシャッターを切っていた。彼は誰とも話さず、ただ由貴の一挙一動をカメラに収めている。その姿は、まるで風景を撮るかのようだった。
撮影が一区切りついたとき、由貴は蒼石のところに歩いていった。
「……蒼石、今日の写真、ちゃんと撮れてる?」
「……うん」
「見せて」
由貴がカメラのモニターを覗くと、そこには先ほど涼太が指示したポーズとは微妙に違う由貴の姿が写っていた。涼太の指示通りに動く前の、一瞬の隙間のような表情。口元がわずかに緩んでいる、自然な笑顔。
由貴はその写真を見て、少しだけ戸惑った。
「……これ、いつ撮ったの?」
「……さっき。由貴がスタッフに笑いかけたとき」
「そんなの、必要ないよ。涼太さんが指示したポーズの方が、絶対に綺麗だよ」
「……そうかもしれない」
蒼石はそれだけ言って、カメラを下ろした。由貴はその無表情な横顔を見ながら、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。
その日、撮影が終わった後、由貴は涼太に誘われて食事に行った。高級レストランの個室で、涼太はワインを注ぎながら、由貴に微笑みかける。
「今日の撮影、本当に良かったよ。由貴ちゃんのポテンシャルは、まだまだ眠ってる。これからもっともっと輝ける」
「ありがとうございます。涼太さんのおかげです」
「ところで、由貴ちゃん。一つ聞いてもいい?」
「……何ですか?」
涼太はワイングラスを手に持ち、由貴の目を真っ直ぐに見つめた。
「蒼石くんのこと、どう思ってる?」
由貴はその質問に、ワインを飲みかけた手を止めた。
「……どうって、幼馴染ですよ」
「それだけ?彼は君の写真を撮って、言葉を書いて、君の隣にいる。でも、君に『綺麗』とは言わない。それはなぜだと思う?」
「……分かりません。聞いても、教えてくれないので」
「彼は、言葉にすると『美しさが損なわれる』と思ってるんだよ。君の『素』を絶対的なものとして崇拝している。だから、汚したくない」
由貴はその言葉に、少しだけ驚いた。
「……どうして、そんなことが分かるんですか?」
「俺も男だからね。君を愛している男の目が、どんなものかくらい分かる」
涼太は笑いながら、ワインを一口含んだ。
「でもね、由貴ちゃん。それって、結局は彼のエゴだよ。君に『綺麗』と言わないのは、君を傷つけるかもしれないからじゃない。君を『自分だけのもの』にしておきたいからだ」
由貴はその言葉を、何度も何度も頭の中で反芻した。
(蒼石が……私を『自分だけのもの』にしておきたい?)
考えたこともなかった。彼はいつも無表情で、何を考えているか分からない。でも、もし涼太の言う通りなら……。
「由貴ちゃん、俺は言うよ。君は美しい。毎日、毎回、何度でも言う」
涼太は優しい声で言った。
「君はもっと、言葉で満たされるべきだ。蒼石くんの沈黙に、これ以上苦しむ必要はない」
由貴はその言葉に、涙が出そうになった。そうだ。自分が欲しかったのは、これだ。誰かに「綺麗」と言ってもらうこと。そのたびに、自分が確かにここに存在していると確認すること。
「……ありがとうございます、涼太さん」
「涼太でいいよ。さあ、もう一杯どうぞ。今日は君のために乾杯しよう」
グラスが軽やかに鳴った。
その夜、由貴は酔いが回って、まっすぐに歩けなかった。涼太がタクシーを呼び、家の前まで送ってくれた。降りる間際、涼太が彼女の耳元でささやいた。
「明日も撮影だよ。楽しみにしてる」
由貴はうなずき、ふらふらと玄関に向かった。鍵を開けて中に入ると、リビングの灯りが点いている。蒼石がソファに座って、彼女を待っていた。
「……遅かったな」
「うん、涼太さんとご飯食べてた」
「……飲んだのか」
「ちょっとだけ」
由貴はソファに座り込もうとして、バランスを崩した。蒼石が素早く彼女の腕を支える。その手は、彼がカメラを構えるときと同じように、正確で優しかった。
「……由貴、ちゃんと食べたのか」
「食べたよ。高級レストランで、すごく美味しかった」
「……そうか」
蒼石は彼女をソファに座らせ、キッチンに向かった。そして戻ってきたときには、湯気の立つほうじ茶が入ったマグカップを持っていた。
「飲め」
「……ありがと」
由貴はマグカップを受け取り、一口啜った。熱くもなく冷たくもない、ちょうどいい温度。彼はいつも、由貴が「ちょうどいい」と感じる温度を把握している。由貴はそのことに、酔いの中でぼんやりと気づいた。
「……蒼石」
「……何だ」
「私のこと、どう思ってる?」
蒼石は一瞬沈黙した。そして、いつものように言った。
「……いい顔だ」
「それだけ?」
「……それだけでいい」
由貴はその答えに、なぜか笑ってしまった。涙が混じった笑い声だった。
「……ずるいよ、蒼石。あなたはいつも、それだけだもん」
蒼石は何も言わなかった。ただ、彼女の頭をそっと撫でた。その手のひらは温かくて、由貴はそのまま眠りに落ちた。
翌朝、由貴が目を覚ますと、自分のベッドで寝ていた。布団がきちんとかけられている。枕元には、小さなメモが置いてあった。
『おはよう。今日の撮影、遅刻するなよ。――涼太』
由貴はそのメモを手に取り、何故か違和感を覚えた。彼女は昨夜、蒼石にほうじ茶を入れてもらい、頭を撫でられ、そして――。
(……あれ? 蒼石、何て言ってたっけ?)
思い出そうとしても、うまくいかなかった。頭がまだ少しぼんやりしている。由貴はメモを置いて、自分の部屋を出た。
隣の部屋のドアは、開いていた。
「蒼石?」
返事はない。部屋の中を覗くと、ベッドはきちんと整えられ、カメラバッグが壁に掛かっている。机の上には原稿用紙が広がっていたが、そこには何も書かれていなかった。
由貴はその様子に、少しだけ不安を覚えた。
(……どこに行ったんだろう? いつもなら、朝は原稿書いてるのに。)
彼女はスマホを開き、蒼石にメッセージを送った。
『今日の撮影、何時に来る?』
既読はついた。しかし、返信は来なかった。
その日、由貴は涼太との撮影に集中しようとしたが、どうしても蒼石のことが気にかかった。彼はスタジオには現れなかった。涼太に聞いても「連絡したけど、来ないみたいだね」とだけ言われた。
撮影が終わり、由貴が帰宅すると、蒼石の靴が玄関にあった。彼は自分の部屋にいる。由貴はドアをノックした。
「蒼石、いる?」
「……うん」
「今日、来なかったね。どうしたの?」
「……少し、考えることがあった」
「考えること?」
「……うん」
それ以上、蒼石は何も言わなかった。由貴はその沈黙に、またしても胸がざわつくのを感じた。
その夜、由貴が布団に入ったとき、スマホが震えた。涼太からのDMだった。
『由貴ちゃん、今日の写真、編集終わったよ。明日の朝に投稿するから、楽しみにしてて。蒼石くん、大丈夫だった?何かあった?』
由貴はそのメッセージを見て、自分でも気づかないうちに、小さな違和感を抱いていた。
(……どうして涼太さんは、蒼石のことをそんなに気にするんだろう?)
その疑問は、すぐに眠気に消された。由貴はスマホを置き、目を閉じた。
隣の部屋では、蒼石が一人で画面に向かっている。彼のモニターには、涼太のマーケティング会社の公開情報が表示されていた。過去に契約したインフルエンサーの名前と、その後の経緯が一覧になっている。
その中には、何人かのインフルエンサーが「契約打ち切り」になった記録があった。理由はすべて「方向性の不一致」とだけ書かれている。
蒼石はそのデータをスクロールしながら、静かな目で画面を見つめた。
そして、彼は新しい原稿用紙に、ペンを走らせ始めた。
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